![](https://stat.ameba.jp/user_images/20150108/01/tank-2012/f0/5f/p/t01990253_0199025313183253054.png?caw=800)
1941年1月8日戦陣訓が布告される。
1941年1月8日に陸軍大臣東條英機が示達した訓令(陸訓一号)を指す。陸訓一号も軍人としてとるべき行動規範を示した文書で、このなかの「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」という一節が有名であり、玉砕や自決など軍人・民間人の死亡の一因となったか否かが議論されている。
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支那事変での軍紀紊乱への対策として教育総監部が軍人勅諭を補足するものとして作成をはじめた。
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岩畔豪雄が発案したといわれ、岩畔は軍紀紊乱対策として「盗むな」「殺すな」「犯すな」を平易な言葉で表現したものとして提案したが、完成された戦陣訓は古典的な精神主義を前面に出したもので当初の岩畔の意図とは異なるものとなった。
陸軍大臣畑俊六が発案し、教育総監部が作成を推進した。
当時の教育総監であった山田乙三や、本部長の今村均、教育総監部第1課長鵜沢尚信、教育総監部第1課で道徳教育を担当していた浦辺彰、陸軍中尉白根孝之らを中心として作成された。
国体観・死生観については井上哲次郎・山田孝雄・和辻哲郎・紀平正美らが参画し、文体については島崎藤村・佐藤惣之助・土井晩翠、小林一郎らが校閲に参画した。
島崎藤村は昭和15年(1940年)春に湯河原の伊藤屋旅館で「戦陣訓」を校閲した。
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東条英機陸軍大臣が戦陣訓を主導したという通説があるが、岩畔豪雄によれば戦陣訓は前任の板垣征四郎陸相、阿南惟幾陸軍次官の時にすでに作成が開始されており、起草作業が長引き、東条が大臣の時に完成した。
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陸軍省が制定し、1941年(昭和16年)1月7日に上奏、翌8日の陸軍始の観兵式において陸訓第一号として全軍に示達した。
同日に新聞などのメディアはこれを大きく報じた。
読売新聞は「昭和の軍人魂昂揚『戦陣訓』を制定す―けふ全将兵に配布―」と題する記事で「世界動乱に対応し最精強の皇軍錬成を目ざす陸軍では皇軍兵士が座右において実践服行するいはゆる昭和武人鑑ともいふべき「戦陣訓」を新たに制定、七日午後上奏御裁可を経たので八日の陸軍始観兵式の佳日を下し東條陸相の名において全軍に示達、各兵士に一葉宛を配布(後略)」と報道し、『戦陣訓』の全文も掲載した。
また、15日付けの週報(内閣情報局編集)では、「国民の心とすべき」と民間人にも実践を求めている。
軍人への浸透のため、陸軍省は『軍隊手牒』と同サイズの『戦陣訓』を作製した。
翌1942年の版からは軍隊手牒に印刷することとした。また別に『戦陣訓解釈』(1942年)も発行している。
当時は軍人や官僚が書籍を出版し印税という形式で賄賂を送り(あるいは媚びを売り)、他の出版物の出版許可を得る風潮があったが、『戦陣訓』の印税受領は不明である。
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「戦陣訓」は「序」と「本訓」「結」から成っており、「本訓」はさらに「其の一」から「其の三」までに分かれている。
序
本訓(其の一) 第一「皇国」
第二「皇軍」
第三「皇紀」
第四「団結」
第五「協同」
第六「攻撃精神」
第七「必勝の精神」
本訓(其の二) 第一「敬神」
第二「孝道」
第三「敬礼挙措」
第四「戦友道」
第五「率先躬行」
第六「責任」
第七「生死観」
第八「名を惜しむ」
第九「質実剛健」
第十「清廉潔白」
本訓(其の三) 第一「戦陣の戒」
第二「戦陣の嗜」
結
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軍隊内部では、奉読が習慣になっていたといわれ、野砲兵第22連隊では起床後の奉読が習慣になっていた。
同様の体験談がある一方で、軍人勅諭は新兵に対し丸暗記を強制させるほど重要性が高い物であったが、戦陣訓にはその様な強制が行われなかったという指摘もある。
司馬遼太郎は関東軍で教育を受け、現役兵のみの連隊(久留米の戦車第1連隊)に属してほんの一時期初年兵教育もさせられたが、戦陣訓が教材に使われている現場を見たことがない、幹部候補生試験などでも軍人勅諭の暗記はテストの対象になるが戦陣訓はそういう材料になっていなかったように思える、と書いている。
一般国民に対しては用紙統制が行われているなか、1941年だけでも少なくとも『戦陣訓述義』『戦陣訓話』など12種の解説書、『たましひをきたへる少国民の戦陣訓』『少年愛国戦陣訓物語』など5種の教材が出版許可を受けて出版されており、以後も敗戦まで種々のものが出た。
このほかに「戦陣訓カルタ」なども作られた。また、学校での教育にとりいれられ、暗記が推奨された。
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生きて虜囚の辱を受けず
「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍(ざいか)の汚名を残すこと勿(なか)れ」の一節が、戦後に製作された太平洋戦争を題材とした小説や映画・ドラマなどで日本軍の人命軽視の行動(バンザイ突撃)を否定する際に引用されることも多い。
ただしこの一文は「本訓 其の二」の「第八 名を惜しむ」の一部を引用したものであり、全文では無い。
「生死を超越し一意任務の完遂に邁進(まいしん)すべし」で知られる「第七 生死観」につづくもので、全文は以下の通りである。
『恥を知る者は強し。常に郷党(きょうとう)家門の面目を思ひ、愈々(いよいよ)奮励(ふんれい)してその期待に答ふべし、生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿(なか)れ』
— 『戦陣訓』「本訓 其の二」、「第八 名を惜しむ」
戦陣訓は「生きて虜囚の辱を受けず」という一節以外にも訓が記載されており、「生きて虜囚の辱を受けず」一節のみが主旨であったわけではない。
たとえば「本訓 其の三 第一」「戦陣の戒」には次のように記されている 。
六 敵産、敵資の保護に留意するを要す。徴発、押収、物資の燼滅等は規定に従ひ、必ず指揮官の命に依るべし。
七 皇軍の本義に鑑み、仁恕の心能く無辜の住民を愛護すべし。
八 戦陣苟も酒色に心奪はれ、又は慾情に駆られて本心を失ひ、皇軍の威信を損じ、奉公の身を過るが如きことあるべからず。深く戒慎し、断じて武人の清節を汚さざらんことを期すべし。
九 怒を抑へ不満を制すべし。「怒は敵と思へ」と古人も教へたり。一瞬の激情悔を後日に残すこと多し。
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軍法との関連性
当時の陸海軍の軍法においては、「敵ニ奔リタル者」を罰する逃亡罪や、指揮官が部隊を率いて投降することを罰する辱職罪の規定が存在した。
他方、捕虜となることそのものを禁止したり捕虜となった者を処罰するような条文は存在せず、軍法において捕虜となる権利が否定されることは無かった。
事実、当時の大日本帝国憲法下の司法制度においても戦陣訓はあくまでも軍法に反しない解釈が行われなければ違法行為になってしまうため、軍法で認められている捕虜の権利を否定する解釈は違法判断になるはずである。
しかし、戦陣訓は勅命と解釈されたため、立法機関によって制定された軍法が上位の存在であることが明白であったにもかかわらず、実質的には戦陣訓が軍法よりも上位であるかのように扱われた。
このため、戦陣訓が一つの行政組織にすぎない陸軍の通達であったにもかかわらず、当時の軍部にはそのような法制度の認識は無かった。
結果、捕虜交換などによって捕虜となった者が帰ってきても、軍法会議は一切開かれることは無く、軍の判断によって自決が強要されたり、スパイ容疑をかけられたり、軍規違反を犯したなどの理由によって秘密裏に殺害された捕虜は相当な数に上った。