潜航輸送艇 | 戦車のブログ

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1943年12月30日日本陸軍の潜水艇「三式潜航輸送艇」(まるゆ)の試作一号艇潜航試験を実施した。
日本陸軍は海軍を信用できなくなっていたため陸軍は単独で輸送船や補給のための潜水艇まで開発運用していたのだ。


陸軍は海軍とは連携せず一から潜航輸送艇の開発、運用を行った。


これこそが日本陸海軍が戦争するのにも共同体制がなされなかった象徴といえよう。



潜航輸送艇(せんこうゆそうてい)は、日本陸軍の潜水艦。


通称のまるゆ(○の中に「ゆ」と書く)で知られる。


1型と2型があり、主に輸送任務で用いられた。


陸軍は最終的には400隻以上の建造を計画していたが、終戦までに完成したのは38隻に留まった。


正式名称は「潜航輸送艇」であり、制式兵器であることを示す「三式」は付さない。



開発に至るまでの経緯


太平洋戦争中のガダルカナル島の戦いで、日本陸軍が補給に苦しんだことをきっかけに開発された。


ガダルカナル島の戦いでは日本の輸送船団が壊滅し、高速の駆逐艦を利用した輸送部隊(鼠輸送)さえもが海上で撃破され、食料弾薬の十分な補給ができなかった。


そこで輸送量は不十分ながらも比較的成功率が高かった、敵に発見されにくい潜水艦での補給(モグラ輸送)を陸軍単独で行うことが計画された。


陸軍がこのような船種を単独で開発する事となった経緯には、1942年9月のラバウル方面を議題とした兵棋演習の席上、モグラ輸送で第六艦隊隷下の伊号潜水艦に多大な損害を受けた日本海軍が、伊号潜水艦は輸送の任から外して本来任務の艦隊攻撃に専念したい事、輸送任務には新たに輸送用の波号潜水艦を陸軍に提供する事で代替とするが、輸送に従事する兵員は操艦要員も含めて全て陸軍からの供出を要求する提案を出した事が背景にあるとされる。


1942年12月、陸軍参謀本部はこの提案の検討の結果、実際の輸送潜水艦運用の権限が海軍に握られる恐れのある「波号潜水艦に陸軍船舶兵を供出する海軍案」を一蹴し、独自に潜水艦を一から建造する事を決断したという。



設計と建造


設計及び建造は海軍には秘匿され、日本陸軍が独自に行った。


国内の造船所のスケジュールは全て海軍に押さえられていたため、やむなく民間のボイラー工場などに船体の製造を依頼する事としたが、建造する工場も発注する陸軍も潜水艦の建造は全く経験がなかったことから、設計は困難を極めた。



第一次世界大戦でドイツが開発した輸送潜水艦の図面を参考とし、更には民間でサンゴ採取用として使用され、伊号第六三潜水艦や戦艦陸奥の事故調査でも活動した西村式潜水艇の開発者西村一松の全面的な技術協力も受け、1943年1月に陸軍第七技術研究所(七研)にて、僅か二ヶ月の内に基本設計図が完成する。



機関は、据付式の石油掘削用動力として使われていたヘッセルマン型エンジン 200馬力を2基直列し、400馬力として搭載した。


耐圧隔壁の資材は戦車用16mm装甲板を1943年度陸軍割り当て分から転用し、同年度中に起工予定の20隻分を確保した。


建造は日立製作所の機関車製造工場(現:日立製作所笠戸事業所)、日本製鋼所の火砲工場(現:日鋼広島製作所)、安藤鉄工所(東京)及び朝鮮機械製作所(仁川)のボイラー製造工場で、主機の製造は相模陸軍造兵廠、神戸製鋼所、大阪金属工業(ダイキン工業)で行われた。



船体建造が4社に跨った為に、実際には1型には4種類のバリエーションが存在する事となった。


設計図完成から九ヶ月後の1943年10月、ゆ 1級の試作一号艇が日立製作所笠戸工場にて竣工、同年12月30日、山口県柳井湾にて海軍関係者も招待して潜航試験が行われたが、当初はトリムの調整に失敗し、艦首が沈むと艦尾が浮く、艦尾が沈むと艦首が浮くなどして全く潜水できなかった。



そこで試行錯誤を繰り返し、やがて艦体はなんとか水面下に完全に没した。


停止した姿勢のままで沈下していった様子を見て「落ちた(沈没した)」と見学していた海軍が騒然となる横で、陸軍一同は「潜水成功」と満面の笑みで万歳三唱するという対照的な構図であった。


本艇が参考とし、実際に訓練資材としての運用もされた西村式潜水艇も、その場で停止した状態から潜航する方式で、航走から潜航に移る海軍潜水艦の潜航方式と全く異なる事も陸海関係者の反応の違いの一因でもあった。


沈没したと思った海軍将校が「演習中止」と言うのを、開発に携わった陸軍佐官が「(沈没とは)違うんだ」と言ってなだめた一幕もあったという。


一号艇の公開実験により潜航・浮上を伴う任務遂行は一応は可能であると判断され、その後民間4社にて原設計から様々な改良を加えながら量産開始、38隻が1型として建造された。


電気溶接工法により個別に製造した複数の区画をリベット止めで結合するブロック工法を採用していた為に生産性が高く、短期間の内にある程度の数を実戦投入する事に貢献した。


主電動機なども導入された機関部ではあったが、基礎的な航行能力が低かったため、任地までの遠洋航海の折には複数のまるゆに1隻の母船(戦時標準船を始めとする徴用貨物船が充てられた)が随伴する編成が採られ、任地到着後の短距離の輸送任務の折にも昼間は海底に沈座してやり過ごし、夜間だけ浮上して航行することとされ、必ずしも急速潜航能力は求めないものとされたが、実際の運用に当たっては哨戒機に発見された折の先制攻撃を緊急回避する必要がある事と、沈座できる海底が無い遠洋では原設計のままでは事実上潜航しての運用が不可能であった為、乗組員の錬成や船体の改修により、1-2分程度とある程度の時間は要するものの、一応は航行からの急速潜航を可能として戦線に投入された。


特に日鋼が製造を担当したゆ 1001級では、海軍潜水艦の急潜時間に比肩する45秒にて急速潜航が完了するよう、ネガティブタンクを新設したり、原設計で主機への負荷増大の一因となっていた四翅プロペラを三翅に交換するなど、原設計からの大幅な設計変更が行われている。




運用


1型は1944年から就役して陸軍船舶司令部直轄(暁部隊)の第一・第二潜航輸送隊に配備され、フィリピン(比島派遣隊)、硫黄島・八丈島を始めとする伊豆諸島(東京派遣隊)、沖縄を始めとする南西諸島(口之津派遣隊)、朝鮮半島方面(御厨派遣隊)への補給任務を行った。



自軍とも連合軍とも異なる小型の潜水艦が素人めいた操艦でノロノロと航走する様は海軍軍人や日本の民間船員の目からもいささか奇異に映ったようで、1944年7月に比島派遣隊所属の1型がフィリピン到着後に日本海軍の軍艦から「汝は何者なるや?潜水可能なるや?」と味方艦艇としてまともに認識されていない打電を受ける、同年9月9日には朝鮮半島群山沖の日本郵船所属の改E型戦標船伊豆丸が、御厨派遣隊所属のゆ 3001級を敵艦と誤認して体当たりを行い、双方共に船体を損傷する同士討ちが発生、1944年12月30日にはフィリピン沖にて海軍の第一〇八号型輸送艦が2隻の1型を敵艦と誤認して攻撃態勢に入るも、相手が余りにも小型であり特段何もしてくる様子も無い為にそのまま見逃しており、結果として陸海軍間での同士討ちを免れるといった様々な珍事が起きている。


なお、本級は日本海軍艦艇の軍艦旗である旭日旗とは異なる陸軍風の日章旗を掲げ、あるいはセイルに描いて運用され、このことも混乱に拍車をかけた。


伊三六一型潜水艦

日本海軍も伊三六一型潜水艦(潜輸大型、丁型)、波一〇一型潜水艦(潜輸小型)などの輸送用潜水艦を建造しているが、いずれも竣工自体は1型よりも1年以上後の事である。


伊号第三五一潜水艦(潜補型)や伊号第三七三潜水艦(丁型改)、丁型改2潜水艦などネームシップのみの竣工で同型艦の多くが未成に終わったもの、計画のみに終わったものも少なくない。


1型、特にゆ 1001級はこれらの海軍輸送潜水艦と比較しても速度性能や潜航深度では極端な性能差は無かったものの、積載できる物資が少なかったことや航続距離が短かったことから、ほどなく2型の開発が行われた。


2型は従来の七研から1944年5月に新設された海運資材開発を専門とした第十陸軍技術研究所(十研)へと移管され、海軍の協力のもとに開発されたが、就役を待たず終戦を迎えた。


1型も戦没や事故などで5隻を喪失し、終戦時に現存した35隻は、戦後全て米軍により海没処分された。


また1型は小型なこともあり、要目表に現れない居住性能は劣っていた。


全長がほぼ同じ波一〇一型と比較しても全幅が2m以上も狭かった事も居住性や積載性の悪化に繋がっており、ゆ 1001級では配管や配線類の配索を原設計から大幅に変更する事により内部空間の確保に努めていた程である。


中島篤巳『陸軍潜水艦隊 極秘プロジェクト! 深海に挑んだ男たち』によると、便所はドラム缶を使用したために艇内に臭気が充満していた。


各国海軍の潜水艦では専用の便所が備えられ、汚物は圧縮空気で外部に排出できるようになっており、日本海軍でも、一部の旧式艦を除いては各国同様に潜航中も使用可能な水洗式便所が備えられていた。


狭いまるゆは艇長室でさえ1畳大の広さしかなく、乗組員達は「本物の」潜水艦に出向く度に、その「広さ」にため息をついた。


海軍潜水艦が備えていた各種の潜水艦専用装備も欠いていた為、潜航の際の深度調整なども全て乗組員の操船技術のみに頼っており、急速潜航の際に安全深度を突破して冷や汗を掻いた事例や、浅海の海底に激突しながらも圧壊は免れ、九死に一生を得た逸話などにも事欠かなかった。


第二次世界大戦中に陸軍で潜水艦を建造・運用させていたのは日本陸軍だけである。


そのため、潜航輸送艇は日本の陸海軍の意思疎通と連携の悪さ、日本陸軍の縦割り意識、日本海軍の艦隊決戦志向の例として挙げられることが多い。




諸元


1型


全長:41.41m


全幅:3.9m


吃水:2.97m


排水量:274.4t(水上)・370t(水中)


主機:ヘッセルマン型エンジン 2基1軸 400馬力(水上)・75馬力(水中)


電動機:構成不明


速力:7.5kt/h(水上)・3.5kt/h(水中)


航続距離:1,500 nmi (2,800 km)/浮上時8ノット (15 km/h)・32 nmi (59 km)/潜航時4ノット (7.4 km/h)



設計深度:100 m (330 ft)


積載量:24t(米換算)、もしくは兵員40名


乗員:23名


武装: 基本:四式三十七粍舟艇砲×1


ゆ1型のうち、ゆ1からゆ3まで:四式三十七粍舟艇砲×1、九九式軽機関銃×5


ゆ1001型:四式三十七粍舟艇砲×1、九二式車載十三粍機関砲×2




2型


全長:55m


全幅:7.0m


吃水:3.13m


排水量:430t(水上)・540t(水中)


主機:ヘッセルマン型エンジン 2基2軸 700馬力(水上)


電動機:110V 最低180回転毎分(並列)、最低90回転毎分(直列)


速力:14.5kt/h(水上)・4.5kt/h(水中)


設計深度:150 m (490 ft)


積載量:40t(米換算)



武装:一式四十七粍対戦車砲×1、九八式二十粍高射機関砲×5




同型艦


ゆ I 型


ゆI型は製造工場の違いにより、非公式には4種の準分類に分別される。


セイルの形状の違いにより、比較的容易に識別が行える。


また、ゆI型は納入順に「○号艇」という番号名が製造番号とは別に与えられた為、戦記や資料を読む際には注意が必要である。


ゆ I型の基礎となる形式。笠戸工場の所在地から下松型とも。


最初に建造されたゆ 1はゆ I型のプロトタイプでもあった。


全てのゆ 1級は日立笠戸工場にて建造され、密閉型のセイルを特色とした。


ゆ 1(一号艇) - 1943年2月起工、同年10月31日竣工。比島派遣隊配属。1945年1月2日、リンガエン湾にて事故により喪失。


ゆ 2(二号艇) - 比島派遣隊配属。1944年11月27日、オルモック湾にて米海軍駆逐艦プリングル、レンショー、ウォーラー、サーフレイの攻撃により撃沈。


ゆ 3(三号艇) - 比島派遣隊配属。1


945年1月、リンガエン湾にて事故により沈没。同月18日、米海軍救難サルベージ船グラスプにより浮揚され、同年5月、米海軍ドック型揚陸艦ラシュモアの曳航により鹵獲。


ゆ 4(四号艇) - 終戦時現存


ゆ 5(五号艇) - 終戦時現存


ゆ 6(六号艇) - 1945年2月13日、第二潜航輸送隊(東京派遣隊、妻良港)に配属、終戦時現存。


ゆ 7(七号艇) - 1944年11月、第二潜航輸送隊(東京派遣隊、稲取港)に配属、終戦時現存。


ゆ 8 - 終戦時現存


ゆ 9 - 終戦時現存


ゆ 10 - 1945年5月15日、口之津派遣隊に配属、終戦時現存。


ゆ 11 - 1945年5月15日、口之津派遣隊に配属。同年6月、御厨派遣隊へ転属。終戦時現存。


ゆ 12 - 1945年5月15日、口之津派遣隊に配属、終戦時現存。


ゆ 13 - 1945年6月、御厨派遣隊に配属、終戦時現存。


ゆ 14 - 1945年5月15日、口之津派遣隊に配属。同年6月、御厨派遣隊へ転属。終戦時現存。


ゆ 15 - 終戦時現存


ゆ 16 - 終戦時現存