日本工兵の父 元帥陸軍大将 上原 勇作 | 戦車のブログ

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上原 勇作(うえはら ゆうさく、安政3年11月9日(1856年12月6日) - 1933年(昭和8年)11月8日)は、明治~昭和期の陸軍軍人。


元帥陸軍大将従一位大勲位功二級子爵、聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロス(GCMG)。


陸軍大臣、教育総監、参謀総長。


日向国都城(現宮崎県都城市)出身。妻は野津道貫の娘、槙子。

山縣有朋、桂太郎ら長州閥の元老凋落の後に陸軍に君臨し、強力な軍閥(上原閥)を築き上げた。

上原閥に属する者に荒木貞夫、真崎甚三郎、柳川平助、小畑敏四郎らがいた。



陸軍大臣、教育総監、参謀総長、元帥の「陸軍三長官」を歴任したのは帝国陸軍史上、上原と杉山元の2名のみである。



安政3年(1856年)、薩摩藩島津氏一門都城島津家重臣、龍岡資弦の次男として生まれる[1]。

1875年(明治8年)、上原家の養子となる。


陸軍幼年学校を経て、1879年(明治12年)、陸軍士官学校卒業(同期に秋山好古など)。


1881年(明治14年)に渡仏、フランス陸軍に学び、1885年に帰国して工兵の近代化に貢献、「日本工兵の父」と称される。


日清戦争においては岳父野津道貫が司令官を務める第1軍の参謀、日露戦争においては、やはり野津が司令官を務める第4軍の参謀長など数々の戦争に従軍して参謀職を務め、1907年(明治40年)に軍功により男爵を授けられた。


1912年(明治45年)、石本新六の死後、第2次西園寺内閣の陸軍大臣に就任。


陸軍提出の2個師団増設案が緊縮財政を理由に拒否されるや、帷幄上奏権を行使して辞任。


陸軍は上原の後任者を出さず、軍部大臣現役武官制を利用して内閣を総辞職させた。


1921年(大正10年)に子爵、元帥。


1933年(昭和8年)、胃潰瘍と心臓病のため、東京・大井鹿島谷町の本邸にて死去した。享年77。




明治2年(1869年)7月 - 造士館入学


明治5年(1872年)12月 - 上京、野津道貫の書生となる。


1873年(明治6年)6月 - 大学南校入学


1875年(明治8年)6月 - 陸軍幼年学校生徒


1877年(明治10年)5月 - 陸軍士官学校(旧3期)入学


1879年(明治12年)12月22日 - 工兵少尉任官


1880年(明治13年)12月 - 陸士工兵科卒業


1881年(明治14年) 2月 - 工兵第1大隊付


6月 - フランス留学(- 1885年12月)


1882年(明治15年) 8月 - フォンテンブロー砲工校学生(- 1884年8月)


9月29日 - 工兵中尉


1885年(明治18年)6月13日 - 工兵大尉


1889年(明治22年) 2月 - 陸士教官


12月 - 臨時砲台建築部本務官


1890年(明治23年) 3月 - 欧州出張(- 1891年1月)


5月9日 - 工兵少佐


10月 - 工兵第5大隊長


1892年(明治25年)8月 - 参謀本部副官


1893年(明治26年) 7月 - 安南・シャム出張(- 11月)


11月 - 参謀本部第2局員


1894年(明治27年) 6月 - 朝鮮国公使館付心得


7月 - 日清戦争出征(- 1895年5月)


8月 - 第1軍参謀


9月25日 - 工兵中佐


1895年(明治28年) 3月 - 第1軍参謀副長


5月 参謀本部第2局員


1896年(明治29年) 3月 - ロシア出張(伏見宮貞愛親王随行、- 8月)


5月 - 参謀本部第4部長


1897年(明治30年)10月11日 - 工兵大佐


1899年(明治32年) 1月 - 参謀本部第3部長(- 1901年7月)・兼参謀本部第5部長(- 4月)


4月 - 欧州出張(- 10月)


1900年(明治33年)7月11日 - 陸軍少将・兼陸軍砲工学校長


1901年(明治34年)7月 - 工兵監


1903年(明治36年)8月 - 欧州出張(- 1904年2月)


1904年(明治37年)6月 - 第4軍参謀長


1906年(明治39年) 2月 - 工兵監


7月6日 - 陸軍中将


1907年(明治40年)9月 - 男爵


1908年(明治41年)12月 - 第7師団長


1911年(明治44年)9月 - 第14師団長


1912年(明治45年/大正元年) 4月5日 - 陸軍大臣


12月 - 待命


1913年(大正2年) 3月 - 第3師団長


6月 - 待命


1914年(大正3年)4月 - 教育総監


1915年(大正4年) 2月15日 - 陸軍大将・兼軍事参議官


12月 - 参謀総長(- 1923年3月)


1921年(大正10年)4月27日 - 子爵・元帥


1924年(大正13年)5月 - 議定官




郷里から上京した後、野津道貫邸で書生をやっていた。


その縁で野津の娘をめとることになったが、彼女は上原が書生をやっていた時代に生まれた子であり、18歳差、結婚時上原は36歳であり、当時としては相当な晩婚であった。


岳父の野津が日清戦争時に第1軍司令官を務めた際は、同軍の参謀、参謀副長として仕え、日露戦争時に第4軍司令官を野津が務めるとその参謀長を務めるという関係になった。


これは人脈人事の一つであり、一説には野津が非常な気難し屋であったため、その幕僚を務められるのは娘婿である上原しかいなかったからと言われている。


日本における工兵技術の育成に熱心に取り組み、ポケットマネーを払って大工や鳶職を自宅に招き、実演させながら基礎作業教範を書いたという逸話がある。


そのため、工兵監になってからも演習へ出向いては兵卒の作業まで自分でやって見せ、工兵将校たちは戦々恐々としていたという。


一方で、自分が酷評したある工兵将校が「兵監の言うことは間違っておられる」と反論した際、他の将校は上原が激怒するのではないかと心配したが、しばらく考えた上原は「ただいまの講評、勇作の誤り」と述べて自分の誤りを受け入れるなど正しい意見はきちんと聴くところもあった。


陸軍大臣、教育総監、参謀総長の陸軍三長官をすべて経験した。


その後の例としては杉山元のみ。


日露戦争時の旅順攻囲戦で、日本軍(乃木希典大将指揮)が大苦戦したことを受け、上原は「私は日本の工兵を厳しく鍛え上げたが、ただ一つの手抜かりは、工兵による要塞攻略、特に坑道掘削作戦の戦術研究と訓練を怠ったことだ。これをやっておれば旅順であんなに苦戦しなかった」と語り、日露戦争が終わった後、上原の指導の下に直ちに要塞攻略戦の研究が始まり、1906年(明治39年)に小倉練兵場に於いて第一回要塞攻略演習を行った。



副官をつとめた今村均によれば、軍事書を中心に大変な読書を好み、フランス語原書を読み、軍事以外にも幅広く理解があったという。


口やかましく周囲から疎ましがられたが、それは広大な知識から発せられたものであり、感服すべきものだったと述べ、副官時代を詳しく語っている。


また、1931年(昭和6年)ごろには、防空には空軍省を設けて独立空軍を創るしかないと語っていたと伝えている。


今村によれば上原は谷寿夫の作成した機密日露戦史の内容に関して「(第三軍と乃木の評価)客観性に欠け事実に反する。旅順を落としたのは乃木であり児玉では無い」と述べ批難したという



シベリア出兵では、国際協定によって撤兵が決定されていたものの、当時参謀総長であった上原は「統帥権干犯」を理由に拒絶する。


原内閣が陸相田中義一の同意を得て撤兵を閣議決定するや、撤退協定締結の前夜にロシア側を総攻撃してウラジオストクを占領する。


結果、日本だけがシベリアに駐留することとなって国際的非難を受け、また、これにより尼港事件の遠因ともなった。


原敬首相は「参謀本部の陰謀」と断じて上原を非難し、激怒した田中が上原を更迭しようとすると、上原は元老山縣有朋に懇願して更迭策を阻止している。


陸軍部内では、九州出身者を中心に「上原閥」を形成して長州閥に対抗した。


元帥として影響を持ち続け、長州閥の田中義一と対立した。


田中を後継した宇垣一成による宇垣軍縮に対抗してその反対派を支援し、後の皇道派結成の温床となった。


派閥抗争・確執の遠因となったとの意見もある。