
若干23歳の関行男海軍大尉は神風特別攻撃隊敷島隊の隊長として「最愛のKA(妻のこと)のために行くんだ」という言葉を残して敵艦へ突っ込んだ。
関 行男(せき ゆきお、1921年8月29日 - 1944年10月25日)は、日本の海軍軍人。
海兵70期。レイテ沖海戦において、初の神風特別攻撃隊の一隊である「敷島隊」の隊長として特攻し、アメリカ海軍の護衛空母セント・ローを撃沈した。
死後「敷島隊五軍神」の1人として顕彰された。
特攻による二階級特進で最終階級は海軍中佐。

1921年8月29日に、愛媛県西条市栄町で古物商を営む父勝太郎と母サカエの子として生まれる。
海軍兵学校
現西条市立大町小学校、旧制西条中学校を経て、1938年12月海軍兵学校(70期)へ進学。
同期には菅野直、高井太郎(イースタン・カーライナー社長)、後宮俊夫(日本基督教団総会議長)がいる。
行男は勉強が出来、文才があり、数学も賞を貰ったり、テニスの主将として全国大会にも出場した経験があった。
父は、行男が高等師範学校に進んで教師になり平穏に暮らすことを望んでいたが、行男は一高がだめならば、同じ程度の難関であった海軍兵学校に行くつもりであった。
父は「今の戦争が長引けばそれだけ命を危険にさらすことになるぞ。」と諭したが、「ぼくは教師など性に合わん。この非常時に事なかれ主義のなまぬるい生き方なんぞ我慢できんよ。」と反論した。
父は「あいつは、わしらには出来過ぎとる。」と、サカエにぼやいたという。
父は行男が海軍兵学校を卒業する前に死去した。
その後、母・サカエは経営していた古物商を廃業し、草餅の行商人へ転じている。
関家では、行男が海軍兵学校へ進学した際に繁子という母方の親族に当たる女性を養女にしている。
海軍兵学校に在籍する者の中で、関は一、二を争うほどの高身長でとても目立っており、新入生恒例の姓名申告では上級生に唯一褒められたという。
その一方で、養妹である繁子の自慢話を同期生に話したり、繁子と他の生徒の許婚を比較して「繁子の方が上だ」というような記述を日記に記述していたことが発覚して制裁を受け、関が記述した日記が全生徒の見世物にされたこともあった。
しかし、繁子の件で制裁を受けた場合を除けば、料亭での芸者遊びによって芸者にあまり関心を持たなかったのを例として、一見して異性に対する関心は無かったようだという。
1941年11月15日海軍兵学校卒業、少尉候補生として戦艦「扶桑」乗組。
1942年4月、水上機母艦「千歳」乗組。渡辺エミ子という鎌倉で有名な医者の娘から慰問袋を送られ、その礼状に「横須賀に帰ったら直接会ってお礼したい」と記述していた。
その後、関が横須賀へ戻った際に約束していた出会いは実現するものの、関はエミ子ではなく、同行していたエミ子の姉に一目惚れする。
その姉が、のちに妻となる渡辺満里子であった。
1942年年6月少尉。
1943年1月第39期飛行科学生を拝命。霞ヶ浦海軍航空隊に入隊。
6月海軍中尉に任官。
8月、宇佐空で艦上爆撃機の実用機教程。

神風特別攻撃隊
1944年1月、霞ヶ浦海軍航空隊付、飛行教官に就任。
1944年5月1日海軍大尉に進級。
1944年5月11日に婚姻願を提出、5月26日に海軍大臣の許可が下りる。
5月31日、関は福永恭助退役海軍少佐夫妻の媒酌のもと、渡辺満里子との結婚式を水交社で執り行った。
阿部三郎によれば、1944年6月マリアナ沖海戦(あ号作戦)の翌々日、関は練習生に向かって「あ号作戦の敗北は知っているだろう。もうこうなったら爆弾を抱いて体当たりするしかない。お前らにそれができるか」と話したという。
1944年9月、台南海軍航空隊の教官に着任。
9月25日、第二〇一海軍航空隊に赴任。
台湾沖航空戦で戦死した鈴木宇三郎海軍大尉の後任として、戦闘三〇一飛行隊長となった。
関の赴任は零戦による降下訓練のためと発表されていたが、搭乗員の間では特攻の指揮官として呼ばれたものと考えられていた。

指揮官任命
1944年10月17日、第一航空艦隊司令長官に内定した大西瀧治郎中将がマニラに到着し、前任の寺岡謹平中将と事務の引継ぎを終えた。
18日大西は参謀などから意見聴取して現状把握に努めたが、一航艦の現有兵力のうち、実働機数が約40機程度であることを知る。
それによって、大西は一航艦司令部で第七六一海軍航空隊司令・前田孝成大佐に戦局の説明を行った後、副官の門司親徳大尉を伴ってマバラカット飛行場に向かう。
夕刻近くにマバラカットに到着の後、指揮所に二〇一空副長・玉井浅一中佐、一航艦首席参謀・猪口力平中佐などを招集し、体当たり攻撃法を披瀝する。
大西と入れ違いにマニラへ向かい、マバラカットに戻る途中で乗機の不時着により足を骨折して海軍病院に入院した二〇一空司令・山本栄大佐には、この会合とは別に一航艦参謀長・小田原俊彦大佐から大西の考える体当たり攻撃法を披瀝され、「副長(玉井)に一任する」との伝言を託していた。
玉井は体当たり攻撃法に賛成し、戦闘三〇五飛行隊長・指宿正信大尉も同意したため、「未曾有の攻撃法」たる体当たり攻撃が採用されるに至った。

玉井は大西に、攻撃隊の編成を一任するよう申し出て了承されると、猪口とともに攻撃隊の編成に取り掛かるが、玉井と猪口には大まかながら攻撃隊の編成が出来上がっていた。
すなわち、隊員は第十期甲種飛行予科練習生から選出して、これは玉井が第二六三海軍航空隊時代から何かと甲飛十期生の面倒を見て共に戦ってきた背景があり、甲飛十期生に一花咲かせようという魂胆からだった。
二〇一空にいた甲飛十期生は63名で、体調不良だったり日本へ航空機受領に行っていた者などを除いた33名の中から隊員を選ぶこととした。
指揮官は海軍兵学校出身者の士官搭乗員から選ぶもので、これは猪口の提案であった。
猪口の構想では、指揮官には当初第三〇六飛行隊長で、関の同期である菅野を考えていたが、菅野も日本へ航空機受領に行っていて不在だったため、関が攻撃隊指揮官として選出されることになる。
その理由として、関が着任時に玉井に挨拶した際に「内地から張り切って戦地にやってきた風」のような感じを与えていたことや、何度も出撃への参加を志願していたことが強い印象として残っていたからだと、玉井は後年になって回想している。
猪口の賛成を得た玉井は、就寝中の関を起こし、体当たり攻撃隊の指揮官として「白羽の矢を立てた」ことを告げた。
猪口によれば、関は指名された際にその場で熟考の後「ぜひやらせて下さい」と即答したという。
玉井によれば、関は「一晩考えさせて下さい」と即答を避け、翌朝になって承諾する返事をしたという。
いずれにせよ、関は特攻隊指揮官の指名を受けた後に自室へ戻って遺書を書いた。
猪口とは多くは語らなかったが、猪口の「君(関)はまだチョンガーだったな」という問いかけに対して「いえ、結婚しております」と答えたという。
玉井と猪口は待機していた大西の下に向かい、隊員24名を選び、関を攻撃隊指揮官としたことを報告した後、隊の名前を「神風特別攻撃隊」と命名するよう願い出て、大西に了承された。
また大西は、各隊に敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊と命名した。

10月20日午前10時、第一航空艦隊長官に着任した大西瀧治郎によって最初の神風特別攻撃隊に訓示と命名式が行われた。
本居宣長の古歌より命名された「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」で、各隊3機ずつ配分された。
この四隊から漏れた甲十期生は別途「菊水隊」へ編入された。
この時点で関はどの隊にも属せず、総指揮官として一種の独立した立場に置かれていた。
「敷島隊」のオリジナルメンバーは中野磐雄(戦三〇一)、谷暢夫(戦三〇五)、山下憲行(戦三〇一)の3名で、いずれも一飛曹だった。
谷暢夫関と敷島・大和・朝日・山桜の各隊員と直掩隊員が二〇一空本部前に整列し、大西が隊員の前に現れて訓示を述べた握手を行った後、関と敷島・大和両隊はマバラカット西飛行場に、朝日・山桜両隊はマバラカット東飛行場それぞれ移動して出撃の時を待つ事となった。

大西は「日本は今、危機でありこの危機を救えるのは若者のみである。したがって国民に代わりお願いする。皆はもう神であるから世俗的欲望はないだろうが、自分は特攻が上聞に達するようにする」と訓示した。
大西はマニラに戻った後にこの神風特攻隊編成の命令書を起案させて、連合艦隊、軍令部、海軍省など中央各所に発信した。
午後になって大西はマニラに戻ったが、その前にマバラカット西飛行場にて関と敷島・大和両隊隊員と最後の対面を行い、別れの水杯を交わしたり雑談を行った後、マニラに向かった。
久納好孚海軍中尉また、大和隊(隊長・久納好孚海軍中尉(法政大学出身))は20日夕方に二〇一空飛行長中島正少佐に率いられセブに移動していった。

同日、同盟通信社の記者で海軍報道班員の小野田政は、関の談話を取ろうと関の部屋に入ったが、
前日の夜に隊長指名を受けた関はこの時、顔面を蒼白にして厳しい表情をしつつピストルを小野田に突きつけ、「お前はなんだ、こんなところへきてはいかん」と怒鳴った。
小野田が身分氏名を明かすとピストルを引っ込めた。
この行動は「異常な心的状況の中に身を置いていた」が故の「異常な行動」という推測もある。
少し後、関と小野田は外に出て、マバラカット西飛行場の傍を流れるバンバン川の畔で、関は小野田に対して次のように語った。
『 報道班員、日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。僕なら体当たりせずとも、敵空母の飛行甲板に50番を命中させる自信がある!僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKAのために行くんだ。命令とあらば止むを得まい。日本が敗けたらKAがアメ公に強姦されるかもしれない。僕は彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ、素晴らしいだろう!?
— 関行男、マバラカット基地近くのバンバン川にて』
「50番」とは500キロ爆弾のこと。
「KA」とは海軍の隠語で妻のこと。

この発言の前半部分は、元は艦上爆撃機搭乗員としてのプライドから出た不満であり。
後半は妻の満里子や母のサカエのことを想起した発言で、承諾の言葉である「ぜひ、私にやらせて下さい」は、「自らの内奥に相剋する想念の全てを一瞬のうちに止揚して」発した発言という指摘もある。
関は宿舎で満里子宛およびサカエ宛の遺書をしたため、満里子の親族に対するお礼や、教官時代の教え子に対しては「教へ子は 散れ山桜 此の如くに」との辞世を残した。
また、この日に日本から戻ってきたばかりの菅野にも不満や残る家族への思いを打ち明けた。
10月20日は、敵艦隊発見の情報なく暮れていった。

10月21日朝、一〇〇式司令部偵察機がレイテ島東方洋上でアメリカ機動部隊を発見し、これを報じる。
敵艦隊発見の報を受けて敷島・朝日・山桜の各隊員が指揮所に移動し、出撃は敷島・朝日の二隊に決定する。
この時点から関は「敷島隊」の隊長も兼任するようになり、「敷島隊」も永峰肇飛長(丙種飛行予科練習生15期)が加えられて総勢5名となった。
関は玉井に遺髪を託し、9時に僚機を伴ってマバラカット西飛行場を発進した。
日本映画社・稲垣浩邦カメラマンが撮影した、前日の大西との訣別とこの日の出撃を組み合わせた映像が、日本ニュース第232号「神風特別攻撃隊」として公開された。
マバラカット東飛行場から発進した「朝日隊」と合流して敵艦隊を目指すも見つけられず、燃料状況から攻撃を断念してレガスピに引き返した。
関は10月22日早朝、「敷島隊」と「朝日隊」を率いてマバラカットに帰投し、玉井に「相済みません」と涙を流して謝罪した。
この日初出撃を果たした特攻隊は「敷島隊」「朝日隊」の他に、セブに移動していた「大和隊」があった。
出撃予定時刻は14時30分であったが、発進寸前で爆撃を受け、稼動機全機が炎上してしまった。
予備機で再編成を行った後、16時25分に爆装2機と直掩1機が発進した。
しかし、悪天候に阻まれて爆装1機と直掩機は引き返したが、隊長の久納はついに帰らず、後日に本人の性情と特攻に対する熱意から推して、体当たりしたものと推定して発表された。
10月23日、「朝日隊」「山桜隊」はマバラカットからダバオに移動した。
唯一マバラカットに残った「敷島隊」は23日・24日にも出撃したが悪天候に阻まれて帰投を余儀なくされた。
関は帰投のたびに玉井に謝罪し、副島泰然軍医大尉の回想では出撃前夜まで寝る事すら出来なかった状況だったという。

10月24日、大西はマバラカット、セブおよびダバオの各基地に対し、10月25日早朝の栗田健男中将の第一遊撃部隊突入に呼応しての特攻隊出撃を命じる。
大黒繁男上等飛行兵「敷島隊」には戦闘三一一飛行隊から関と同じ愛媛出身の大黒繁男上等飛行兵が加わり、直掩には歴戦の西澤廣義飛曹長が加入した。
西澤廣義飛曹長10月25日7時25分、関率いる「敷島隊」10機(爆装6、直掩4)は、骨折の身ながら海軍病院から抜け出して駆けつけた山本や、山本に付き添った副島らに見送られてマバラカット西飛行場を発進する。
途中、初出撃から行動を共にしていた山下機がエンジン不調でレガスピに引き返し、「敷島隊」の爆装機はこの時点から5機となる。
10時10分にレイテ湾突入を断念して引き返す栗田艦隊を確認した後、10時40分に護衛空母5隻を基幹とする第77.4.3任務群(クリフトン・スプレイグ少将)を発見して突撃機会を伺い、10時49分に僚機と共に突入して戦死した。
享年23。

「敷島隊」は第77.4.3任務群に接近するまではレーダーを避けるために超低空で飛び、至近距離まで近寄った後に雲間へ隠れて様子を伺い、10時49分に攻撃を開始した。
1機はキトカン・ベイの艦橋を掠めて飛行甲板外の通路に命中、カリニン・ベイには1機が前部エレベーター後方、もう1機が後部エレベーター前方にそれぞれ命中した。
ホワイト・プレインズを狙った1機は、被弾による操縦不能によって狙いが外れて艦尾至近の海中に突入、セント・ローにはホワイト・プレインズに向かっていた2機のうちの1機が針路を変えて突入し、格納庫で爆発した爆弾により激しく炎上したセント・ローは、11時30分に最後の大爆発を起こして沈没した。
デニス・ウォーナーによれば、「セント・ロー撃沈の栄光は日本の多くの著者たちにより、関大尉に与えられている」。
しかしウォーナーは「日本の多くの著者」の主張を採用せず、関は「カリニン・ベイ」に突入したとする。
金子は突入時刻やアメリカ側が撮影した写真などから、関が突入したのはカリニン・ベイではなく「キトカン・ベイ」であると主張している。
しかし、結論から言えば「敷島隊」のどの機がどの空母に突入したかを特定するのは困難である。

戦中に軍神と称えられ、軍国主義の宣伝材料に使われたことが敗戦後の世相の中で仇となり、関や遺族は終戦後は一転日陰の存在となった。
戦後しばらく軍人の遺族に国からの扶助などが行われなかったため、関の遺族も生活は苦しかった。
関には子供が存在せず、妻の満里子は戦後に再婚した。
母・サカエは草餅の行商で生活し、後に石鎚村立石鎚中学校に学校用務員として雇われ、生徒からは「日本一の小使いさんの関おばさん」と呼ばれて親しまれたが、1953年11月9日に用務員室で57歳で急死して関家は断絶した。

サカエの没後、伊予三島市(現・四国中央市)の村松大師に関の墓が建立され、1975年には関の慰霊と平和祈願のため、関親子を昔からよく知る西条市楢本神社神主石川梅蔵の発願により、元海軍大佐で国会議員だった源田実の協力も得て、楢本神社に「関行男慰霊之碑」が建立された。
毎年10月25日には、関が敵空母に突入した午前10時に海上自衛隊徳島航空基地か、小松島航空基地の航空機5機編隊が、慰霊のための編隊飛行を楢本神社上空で行なっている。
また靖国神社には関の遺影が祀られている。

遺書
父上様、母上様 西条の母上には幼時より御苦労ばかりおかけし、不孝の段、お許し下さいませ。 今回帝国勝敗の岐路に立ち、身を以て君恩に報ずる覚悟です。武人の本懐此れにすぐることはありません。 鎌倉の御両親に於かれましては、本当に心から可愛がっていただき、その御恩に報いる事も出来ず征く事を、御許し下さいませ。
本日、帝国の為、身を以て母艦に体当たりを行ひ、君恩に報ずる覚悟です。皆様御体大切に
満里子殿 何もしてやる事も出来ず散り行く事はお前に対して誠にすまぬと思って居る 何も言はずとも 武人の妻の覚悟は十分出来ている事と思ふ 御両親様に孝養を専一と心掛け生活して行く様 色々と思出をたどりながら出発前に記す 恵美ちゃん坊主も元気でやれ
教へ子へ 教へ子よ散れ山桜此の如くに