竹橋事件 | 戦車のブログ

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竹橋事件(たけばしじけん)は、1878年(明治11年)8月23日に、竹橋付近に駐屯していた大日本帝国陸軍の近衛兵部隊が起こした武装反乱事件である。竹橋騒動、竹橋の暴動ともいわれる。

反乱は、鎮台予備砲隊隊長岡本柳之助大尉、松尾三代太郎騎兵中尉、近衛歩兵第二連隊第二大隊第二中隊兵卒三添卯之助、近衛砲兵大隊第一小隊小隊馭卒小川弥蔵、同第二小隊馭卒長島竹四郎、同じく小島萬助らを中心に決起の計画が練られた。

旗を用いて合図を送ったり、「龍」→「龍起」、「偶日」→「奇日」等の合言葉を作成する等、計画的なものであった。

午後11時、橋西詰にあった近衛砲兵大隊竹橋部隊を中心とした反乱兵計259名が山砲2門を引き出して蜂起し、騒ぎを聞いて駆けつけた大隊長宇都宮茂敏少佐、続いて週番士官深沢巳吉大尉を殺害した。


砲兵隊の門前を出ると、既に近衛歩兵第一、第二連隊が出動しており、これと銃撃戦になった。戦闘に紛れて反乱軍は大蔵卿大隈重信公邸に銃撃を加え、営内の厩や周辺住居数軒に放火。

この一時間にわたる戦闘で鎮圧軍側では坂元彪少尉ら2名が死亡し、4名が負傷。対する反乱軍側も6人が死亡し、70名以上が捕縛された。

この戦闘で小銃弾を大幅に消耗してしまった反乱軍は午後12時、やむをえず天皇のいる赤坂仮皇居へと向かい、集まる参議を捕らえようとした。

この道中で、さらに20余名が馬で駆け付けた近衛局の週番士官の説得に応じて投降、営舍へ戻った。

残る94名は仮皇居である赤坂離宮に到着すると、騒ぎを諌めようとした近衛局当直士官磯林真三中尉に誘導され、正門へ到着し、「嘆願の趣きあり」 と叫んだ。


正門を警備している西寛二郎少佐率いる近衛歩兵隊が一行を阻止し、武器を渡せと叫ぶと、反乱側代表として前へ出た軍曹は一瞬斬り掛る風を見せたが、士官の背後に近衛歩兵一個中隊が銃を構えているのを見て、士気を喪失し、刀を差し出した。

続いて絶望したリーダー格の一兵士大久保忠八が銃口を腹に当てて自決した。

これをしおに、残り全員が午前1時半をもって武装解除し投降。蜂起してからわずか2時間半後のことであった。

同日午前8時、早くも陸軍裁判所で逮捕者への尋問が始められ、10月15日に判決が下された。

騒乱に加わった者のうち、岡本は発狂したとして官職剥奪で除隊、三添ら55名は同日銃殺刑(うち2名は翌年4月10日処刑)、内山定吾少尉ら118名が准流刑(内山はのちに大赦)、懲役刑15名、鞭打ち及び禁固刑1名、4名が禁固刑に処せられている。

事件に直接参加していない者を含め、全体で処罰を受けたものは394名だった。


動機は、過重な兵役制度や西南戦争の行賞についての不平であった。大隈邸が攻撃目標とされたのは、彼が行賞削減を企図したと言われていたためである。



内務省の判任官西村織兵衛は事件の起こる直前の夕方に神田橋で叛乱計画の謀議を知り、内務省に立ち戻り書記官に急を知らせた。

この通報により蹶起計画は事前に漏れていたのだが、阻止することはできなかった。



のちに日本軍の思想統一を図る軍人勅諭発案や、軍内部の秩序を維持する憲兵創設のきっかけとなり、また近衛兵以外の皇居警備組織として門部(後の皇宮警察)を設置するきっかけとなった。

太平洋戦争後まで真相が明らかになることはなかった。

近年では、行動の背景に自由民権思想の影響があったとも考えられている。

自衛隊法61条が、「自衛官は政治的目的のために政治的行為をしてはならない」とある。

それは明治天皇が軍人に下賜した「軍人勅論」(1882年)1条の、「軍人は世論に惑わず、政治にかかわらず、ただただ一途に己が本分の忠誠を守り」に繋がる。

竹橋事件は今にも繋がる軍人・自衛官は政治的活動に関与せずのきっかけとなった事件ともいえる。