米海兵隊ガダルカナル島・ツラギ島上陸 | 戦車のブログ

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1942年8月7日アメリカ海兵隊がガダルカナル島とツラギ島に上陸し日本軍と激戦が行われた。

日本は太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦(南方作戦)において、援蒋ルート遮断と資源(原油、鉱物、天然ゴム等)の獲得のため、マレー(マレー作戦)、ビルマ(ビルマの戦い)、フィリピン(フィリピンの戦い)、シンガポール(シンガポールの戦い)、ボルネオ・インドネシア(蘭印作戦)などといった広大な連合国植民地を占領、また、太平洋戦争の開戦意義であり南方作戦における最重要攻略目標であった蘭印パレンバンおよび周辺の製油所・大油田地帯も、「空の神兵」こと陸軍第1挺進団の空挺作戦によりほぼ無傷で獲得した(パレンバン空挺作戦)。

しかし、第二次の作戦については方針が定まってはいなかった。

日本海軍は、アメリカを相手に長期持久戦を行うことを不利として、積極的に戦線を拡大して早期に主力艦隊同士の決戦を図ることを主張した。

その海軍が1942年4月に計画したのが、第1に連合国の反攻拠点と考えられたオーストラリアの攻略作戦であり、第2にミッドウェー島を攻略することでアメリカ艦隊を引き寄せて撃滅しアメリカの継戦意欲を失わせる作戦であった。日本陸軍は、あくまで日中戦争(支那事変)解決を重視しており、東南アジアの占領地・資源地帯は現状維持とし、それ以上の太平洋方面は海軍の作戦担当地域であるという認識に立っていたため、戦線拡大には否定的であった。

したがって大兵力を中国の支那派遣軍や、満州の関東軍から引き抜かなくてはならないオーストラリア攻略作戦に消極的ではあったが、オーストラリアを孤立させることについては海軍と見解が一致した。

これで企画されたのが米豪遮断作戦である。

この作戦は、ニューギニア島東南岸のポートモレスビー攻略作戦(MO作戦)とニューカレドニア、フィジー、サモアの攻略作戦(FS作戦)から成るものであったが、FS作戦遂行にあたって5月に前進飛行場の建設適地とされたのが、ガダルカナル島であった。

ところが日本海軍はミッドウェー海戦において主力航空母艦4隻を失うこととなり、FS作戦の実施は一時中止されることとなった。

だが、守勢に回ったとしても必要となるソロモン諸島の制空権拡張のため、ラバウル以南の前進航空基地を建設する為、ガダルカナル島に飛行場が建設されることとなった。

大本営は連合軍の太平洋方面の反攻開始は1943年以降と想定していたため、ガダルカナル島において戦闘能力のある人員は、設営隊と護衛の海軍陸戦隊(第18警備隊基幹)を合わせても600名足らずであった。

アメリカ軍上陸直前の8月5日には滑走路の第1期工事が完了している。

なおこれに先立つMO作戦時に、近接するツラギ島には水上機基地が設けられていた。

日本軍の予測は外れ、アメリカ軍は早くも7月2日には対日反攻作戦となるウォッチタワー作戦を発令した。

米国陸軍マッカーサー大将は、ウォッチタワー作戦の目標をフィリピンにより近いラバウルとすることを主張していた。

しかし、太平洋艦隊の空母戦力が充実していないことを理由に海軍作戦部長アーネスト・キング大将から猛反対され、当時飛行場建設が行われていたガダルカナル島を攻略することで双方一応の決着をみた。

そして7月4日以降ガダルカナル島への偵察・爆撃が強化され上陸作戦への布石が打たれた。


8月7日午前4時、海兵隊第1海兵師団(師団長アレクサンダー・ヴァンデグリフト少将)を主力とし、オーストラリア軍の支援を受けた10,900名の海兵隊員が、艦砲射撃と航空機の支援の下でガダルカナル島テナル川東岸付近に上陸を開始した。

同時にツラギ島方面にも4個大隊1,500名が上陸し壮絶な玉砕戦が行われた。また、これとは別に6,705名が海上に師団予備として残された。

8月7日、ガダルカナル島の日本軍は哨直の第13設営隊以外は眠っており、連合軍の攻撃は完全な奇襲となった。

上陸当初、最も敵に近いルンガ川の飛行場地区に第11設営隊の陣地があり、ルンガ川を挟んで第13設営隊、海軍陸戦隊が駐屯していたが、各隊の陣地は防空壕以外に陣地整備されているものは何も無い状況だった。

そのため、敵兵力の把握もままならないままルンガ川東岸の第11設営隊約1,350名は駆逐され、完成間近の飛行場を含むルンガ川東岸一帯は連合軍の手に落ちた。

この上陸戦において、米軍側公刊戦史は小銃、機関銃数挺、70粍山砲(歩兵砲)及び75粍山砲各2門、弾薬、ガソリン、燃料、使用可能なトラック35台を含む自動車と電波探知機2台、糧秣多数を鹵獲したと伝えている。

一方、第13設営隊隊長岡村徳長少佐は冷静に指揮下の1,200人の設営隊員を敵上陸地点の反対方向のルンガ川西岸地区に移動させ、ルンガ川橋梁を破壊してルンガ川西岸で連合軍部隊を迎え撃つ姿勢を見せた。

同日夕方、どうにか数十名の部下を従えた第11設営隊隊長門前鼎大佐が岡村部隊と合流して善後策を協議し、ルンガより西方約4キロメートルにあるマタニカウ川を第一線陣地とし、門前隊、岡村隊、第18警備隊(含む第84警備隊の1部)を合わせて臨時のガダルカナル島守備隊を編成することとなった。

8日午前零時、門前大佐が中隊長としてクルツ岬に向けて中隊本部を後退させ、岡村隊と警備隊をマタニカウ川正面に展開を終えたのは8日午前4時30分とされる。

この際に同隊がクルツ岬付近のジャングルに設営された海軍本部に収容できた食料は、わずか7日分であった。

これに対し、連合軍の動きを知った日本海軍は現地のラバウル第25航空戦隊(陸攻27、艦爆9、戦闘機17の計53機)と第8艦隊(三川軍一中将、増強を受け重巡5隻、軽巡2隻、駆逐1隻)に反撃を指示した。

また、陸海軍協定に則り、陸軍に協力を求め、在ラバウル陸軍第17軍はグアム島の一木支隊、パラオ諸島駐屯の第35旅団(川口支隊)をガダルカナルに投入することとした。



上陸初日からの日本軍による反撃により、テナルの米軍揚陸地点を危険と判断したフレッチャー中将は揚陸作業を中断して空母群と輸送船団を南方に退避させた。

そのため、第1海兵師団も十分な物資を揚陸できず上陸作戦完了後、海兵隊の1日の食事は2食に制限された。

また、ガダルカナル島での航空優勢が確立されるまで、同島への物資補給は米軍も駆逐艦輸送に限定されることとなった(後に日本軍はこの手法を「鼠輸送」と称して常用するようになるのである)。

13日、捕虜となったある日本兵が米海兵隊に対して「日本軍には投降する意志がある」と証言した。

海兵隊の偵察隊もマタニカウ川西岸に「白旗」が掲げられていると報告したため、第1海兵師団のD-2(情報担当幕僚)のフランク・ゲデッジ中佐率いる24名の偵察隊が現地に向かった。

ところが実際には日本軍の攻撃を受け、伝令2名と川に飛び込んで逃げた1名のみが生還した。

「白旗」を囮に攻撃を加えるという日本軍に多くの海兵隊員は激怒し、彼らの多くが日本兵は捕虜にせず、その場で殺害することを心に誓ったという。

18日、同川西岸の日本軍を危険視したヴァンデグリフトは、これを排除すべく第5海兵連隊の3個中隊を投入。

翌19日、同連隊B中隊は、海岸沿いに西進してマタニカウ川東岸に向かい、マタニカウ村に向けて援護射撃を行い、L中隊は同川河口上流を渡河して西岸を北上し、マタニカウ村を攻撃した。

日本軍は激しく抗戦し、特に日本側の狙撃兵によって米軍側の指揮官が次々と倒された。

L中隊のある小隊では1日で小隊長2名が戦死している。

海兵隊も偵察狙撃班を編成して対抗し、I中隊が日本軍の退路を遮断するためククムから西のコクンボナに上陸を敢行。

午後には日本軍が戦闘からの離脱と後退を開始した。

だが、海兵隊側には追撃を試みるだけの兵力や物資がなく、第5連隊は元の陣地に帰還している。


陸軍の一木清直大佐率いる大本営直轄の一木支隊(第7師団の歩兵第28連隊を基幹とする)約2,300名は、当初ミッドウェー島攻略部隊に充当されていた部隊であったが、1942年6月のミッドウェー海戦で海軍が敗北したため攻略作戦は中止となり、一時グァム島に休養を兼ねて留め置かれていた。

同年8月7日の連合軍ガダルカナル上陸が始まると内地転属が解除され、そのままトラック諸島へと輸送された。

トラック諸島からガダルカナルまでは駆逐艦「陽炎」以下6隻に第1梯団として支隊本部163名、大隊本部23名、歩兵4個中隊420名(軽機関銃36、擲弾筒24)、機関銃隊110名(重機関銃8挺)、大隊砲1個小隊50名(歩兵砲2門)、工兵1個中隊150名が乗船し急派されている。

支隊の残りは、海軍の横須賀第5特別陸戦隊主力とともに輸送船で第2梯団として送り込まれることとなったが、同時に出航したにもかかわらず9.5ノットの低速が災いし、イル川渡河戦(米国名:テナルの戦い)には間に合わなかった(イル川は現地名で、日本軍は中川と呼称。テナル川はイル川の東方に位置し日本軍通称は蛇川)。

このほか横須賀第5特別陸戦隊の先遣部隊(高橋中隊)が駆逐艦により輸送され、8月16日に上陸成功して設営隊などと合流している。

駆逐艦輸送であった為、一木支隊は実質、1個大隊相当の戦力しかなかったといえる。

さらに、一木支隊に届いていた敵情については「連合軍兵力は約2,000名」、「敵上陸目的は飛行場破壊にあり、現在は島からの脱出に腐心している」などといった海軍第11設営隊、や駐ソ武官の情報などがあった。

そのため、第1梯団は軽装(1人当たり小銃弾250発、食料7日分)で急行し、海軍部隊を保護して、ただちに敵を攻撃する方針を決定する。


ツラギ方面の戦い

ツラギ(フロリダ諸島)の攻略にあたったのは、呉第三特別陸戦隊を主力とした部隊であった。

呉第三特別陸戦隊はトラック島で作戦準備を行い、志摩清英少将指揮する駆逐艦菊月、夕月、機雷敷設艦沖島、光栄丸、吾妻山丸から成る南洋部隊に輸送され、1942年(昭和17年)5月3日未明、ツラギ島、ガブツ島、タナンボゴ島に上陸し、同日中に三島を無血占領した。

占領と同時に基地の設営作業が開始され、この日の夕方までにオーストラリア軍の設備を改修して九七式飛行艇(以下、「大艇」と記す)6機、零式水上偵察機6機分の基地設営を完了し、3機の大艇が同日中にツラギ地区に進出した。

しかし、5月4日に米空母「ヨークタウン」を飛び立った艦上機がツラギ地区に来襲した。

この攻撃により、駆逐艦菊月、第一、第二掃海特務艇、補給艦玉丸が撃沈され、日本軍の水上基地は破壊された。

その後復旧作業が完了し、7月上旬に再びこの地域に進出した横浜海軍航空隊はタナンボゴ島を拠点に哨戒任務にあたった。

1942年7月2日、米軍は対日反攻のため「ウォッチタワー作戦」を発動し、まずツラギの攻略とサンタクルーズ諸島(ガダルカナル島の東)への進出を8月1日に行うことにしてその準備を開始した。

この準備中に、ガダルカナル島で日本軍が建設中の飛行場を発見したためガダルカナル島の攻略も同時に行うことになった。

ガダルカナル島が追加となったので、その準備のため作戦の実施は少し遅らせて8月7日に決定された。

日本軍(海軍のみ) ツラギ島 第84警備隊(司令・鈴木正明 中佐)約400名

ガブツ島 横浜海軍航空隊(病院班・舟艇班・工作班)約100名

タナンボゴ島 横浜海軍航空隊大艇隊(司令・宮崎重敏 大佐)350名
第14設営隊 120名
工作関係部隊 50名
特陸派遣隊 20名

フロリダ島 横浜海軍航空隊二式水戦隊 60名



計約1100名
米軍 第1海兵師団4個大隊


計約8000名

1942年(昭和17年)8月6日午後10時、ラバウルから異常電波傍受の報せを受けた横浜海軍航空隊は、大艇の発進時間をいつもより繰り上げ、その発進準備にかかった。

そして翌7日午前4時10分、発進準備を終えた大艇はいよいよ離水を開始しようとする。

しかし、その瞬間に米艦載機約10機が来襲。泊地の大艇は全滅し、フロリダ島の水上戦闘機隊も同じ頃全滅した。

午前7時過ぎに第二波の空襲を行った米軍は、午前9時に上陸用舟艇約100隻をフロリダ島の湾に向け発進させたが、途中で引き返して午前10時にガブツの東岸に上陸した。

ガブツの守備隊には武器がなく、タナンボゴからの援護を受けたものの、同日中に占領された。

午後9時、米軍はタナンボゴの北側から6隻の上陸用舟艇で進撃を開始した。

しかし、進撃の途中に陸岸から50m程先にあるリーフに先頭艇が座礁し、これを見ていた日本軍守備隊はこの舟艇を襲撃した。

この攻撃に驚いた米兵は慌てて後続艇に乗り移り、撤退した。

この攻撃により、米兵10数名が戦死し、日本軍は舟艇に置き去りにされた機銃を鹵獲した。


翌8日午後3時、米軍はガブツとタナンボゴをつなぐ土手づたいに進撃を開始した。

米軍は日本軍陣地の200m手前まで進撃するも、日本軍の抵抗にあい後退した。

午後4時、米軍は兵員輸送用の水陸両用車輛(LVT)二両を以ってタナンボゴに上陸を試みた。

これを見た日本軍守備隊約50名は、LVTに駆け寄ると、転輪とキャタピラの間に鉄棒や棍棒をこじ入れLVTの動きを止め、ガソリンをかけてトラクターに火を放った。

これにより二輛のLVTは炎上したが、ガブツからの機銃弾により日本兵42名が戦死した。

午後5時、米軍はタナンボゴ島の前面500mの至近距離に軽巡洋艦1隻、駆逐艦3隻を進出させた。

3隻は一列に並び左砲戦の隊形をとると、タナンボゴ島に対して艦砲射撃を開始した。

この砲撃により日本軍守備隊は3名を残して全員玉砕し、司令の宮崎大佐は壕内で自決した。

この砲撃の後、米軍は同島に上陸し、無血占領を果たした。


日本軍 戦死者 約1100名(ほぼ全員)
生存者 3名

米軍 戦死者 約122名

ガダルカナルの戦いの陰にツラギの戦いで日本軍は3名の生存者を残し玉砕した。
忘れ去られた戦史ともいえる。