7月5日の人々 | 戦車のブログ

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7月5日が誕生日な人々

1884年 清瀬一郎[きよせ・いちろう] (弁護士,文相(73代),衆議院議長(49・50代))[1967年6月27日歿]

清瀬 一郎(きよせ いちろう、1884年(明治17年)7月5日 - 1967年(昭和42年)6月27日)は大正、昭和時代の日本の弁護士、政治家。弁護士としては極東国際軍事裁判で東條英機の弁護人などを務め、また政治家としては文部大臣、衆議院議長を歴任。学位は法学博士。東京弁護士会会長。従二位勲一等旭日桐花大綬章。



1946年1月、戦前の親軍転向を理由にGHQから公職追放された。極東国際軍事裁判では、日本側弁護団副団長と東條英機元首相の主任弁護人を務めたことでも知られる。

追放解除後も憲法改正を主張するなど典型的な戦前派の保守政治家と目されたが、清廉さを身上とするが故に政界復帰後はハト派の三木武夫と行動をともにした。衆議院議長に就任した際も「公平さを期するため」と党籍を離脱した。

当時は議長・副議長の党籍離脱は慣例化しておらず、清瀬の党籍離脱は異例ともいえる。


1908年 ダグラス・マッカーサー2世 (米:駐日大使,1世の甥)Douglas MacArthur II[1997年11月15日歿]

ダグラス・マッカーサー2世(Douglas MacArthur II、1908年7月5日 - 1997年11月15日)はアメリカ合衆国の外交官。連合国最高司令官として知られているダグラス・マッカーサーの甥。1957年1月から1961年3月まで駐日アメリカ大使を務めた。


1938年 金城哲夫[きんじょう・てつお] (脚本家)[1976年2月26日歿]

金城 哲夫(きんじょう てつお、1938年7月5日 - 1976年2月26日)は、日本の脚本家。沖縄県島尻郡南風原町出身。第一期ウルトラシリーズを企画し、脚本面から支えた作家として知られる。

なお「金城」姓は本来「カナグシク」「カナグスク」と発音し、沖縄県ではきわめて一般的な名字(苗字)のひとつである。


1941年 仲本工事[なかもと・こうじ] (タレント(ドリフターズ))

仲本 工事(なかもと こうじ、1941年〈昭和16年〉7月5日 - )は、日本のコメディアン、歌手、作曲家、俳優。ザ・ドリフターズ、こぶ茶バンドのメンバー。本名、仲本 興喜(なかもと こうき)。

東京府東京市渋谷区(現:東京都渋谷区)出身。イザワオフィス所属。バンドでの担当はボーカルとギター。血液型はA型。身長160cm、体重66.5kg。両親は共に沖縄県からの上京者。ドリフ映画での呼び名は「メガネ」。

沖縄で活躍する従兄弟の仲本興次もミュージシャンで、マーニンネーラン・バンドのドラマーである。日本芸術専門学校特別講師。



7月5日が命日な人々

1913年 有栖川宮威仁親王[ありすがわのみや・たけひと] (皇族,海軍軍人) <51歳>[1862年1月13日生]

有栖川宮 威仁親王(ありすがわのみや たけひとしんのう、文久2年1月13日(1862年2月11日) - 大正2年(1913年)7月5日)は、日本の皇族、軍人。官職は軍事参議官。称号・階級は元帥海軍大将。勲等は大勲位。功級は功三級。

有栖川宮幟仁親王の第四王子(男女合わせた王子女の中では八人目、但し成人した男子は熾仁親王と威仁親王だけ)で、生母は家女房の森則子。熾仁親王は異母兄。 幼称は稠宮(さわのみや)。 妃は加賀金沢藩主前田慶寧の娘・慰子(やすこ)。


文久2年1月13日(1862年2月11日)、京都において誕生、稠宮と命名された。

父・幟仁親王にはすでに熾仁親王という嫡子がいたため、稠宮は然るべき年齢に達した後に妙法院門主を相続することが内定した。

しかし、明治維新による諸制度の変革で宮門跡の制度が廃されたことから、明治4年(1871年)に稠宮の妙法院相続の内定は取り消され、明治天皇によって幟仁親王が東京への転居を命じられたのに従い、稠宮も上京した。

明治7年(1874年)7月8日、参内した稠宮は明治天皇から海軍軍人を志すよう命じられ、同月13日、海軍兵学寮予科に入学した。

明治9年(1876年)、前田慰子と婚約。

明治10年(1877年)、鹿児島県逆徒征討総督として九州赴任中の熾仁親王からの呼び出しにより、稠宮は船で鹿児島に赴き、熾仁親王と共に西南戦争の戦地跡を視察した。

明治11年(1878年)4月、40歳を過ぎて妃との間に継嗣のできない熾仁親王は、稠宮を事実上の養子として有栖川宮の後継者にしたい旨を明治天皇に願い出る。

当時はまだ旧皇室典範制定前で、皇族の継承権問題が天皇の裁量で決められたため、5月18日に勅許が出された。

これにより同年8月26日、稠宮は明治天皇の猶子となり、親王宣下を受けて威仁の名を賜った。

明治12年(1879年)、威仁親王は太政官より、イギリス海軍シナ海艦隊旗艦・「アイアン・デューク(Iron Duke)」への乗組みを命ぜられ、約1年間にわたり艦上作業に従事した。

帰国後の明治13年(1880年)、少尉に任ぜられたのを皮切りに12月1日に英国留学を命じられ、帝国海軍士官としての歩みを始める。10日後の12月11日、前田慰子と結婚。

新婚間もない明治14年(1881年)1月、威仁親王は慰子を残してイギリスのグリニッジ海軍大学校に留学、3年半後の明治16年(1883年)6月に漸く帰国した。

海軍大佐として巡洋艦「高雄」艦長在任中の明治24年(1891年)、威仁親王はロシア帝国のニコライ皇太子(後のニコライ2世)来日の際、外国留学の経験を買われ明治天皇の名代として接待役を命じられた。

このニコライ皇太子訪日の日程中、滋賀県大津市において大津事件が発生。

外国の王皇族に日本の官憲が危害を加えるという日本外交史始まって以来の大事件となったが、威仁親王の要請により明治天皇自らがニコライを見舞うなど、日本側が誠実な対応をしたことによりロシアとの関係悪化は回避された。

日清戦争中は海軍大佐であったが、開戦時は横須賀海兵団長、その後は大本営附と、いずれも陸上勤務の日々を過ごした。

黄海海戦終了後の明治27年(1894年)12月8日、ようやく連合艦隊旗艦「松島」艦長として艦隊勤務についたが、翌明治28年(1895年)1月、熾仁親王の薨去とその葬儀のために一時帰国を余儀なくされた。

その直後に起きた威海衛の戦いは、威仁親王が艦へ戻った時には既に終結しており、結局親王は実戦を経験することができなかった。

熾仁親王の薨去により、威仁親王は有栖川宮の第10代の当主となった。

熾仁親王同様明治天皇の信任が篤く、明治32年(1899年)から同36年(1903年)まで、皇太子・嘉仁親王(後の大正天皇)の教育係である東宮輔導に任命されている。

一方で、これ以降海軍においては籍こそ現役として置いているものの、実際の軍務にはほとんど従事していない。

日露戦争開戦時も海軍中将であったが、一時的に大本営附となったほかは戦争に全く関与しておらず、日本海海戦が行われた頃には、ドイツ帝国皇太子結婚式出席のためヨーロッパに滞在していた。

威仁親王は生来体が弱く、軍務も度々休職して静養するなどしていたが、栽仁王の薨去後は肺結核を患い、明治42年(1909年)から薨去に至るまで、現在の兵庫県神戸市垂水区にあった有栖川宮舞子別邸で家族を東京に残して静養を行った。

大正2年(1913年)7月5日、威仁親王は舞子別邸において52歳で薨去した。

だが諸般の事情により喪は秘され、7月10日に遺体は「御重体」のまま汽車に乗せられ、東京の麹町区三年町1番地(現在の内閣府庁舎の付近)にあった宮邸に搬送された。

この日初めて喪が発表され、薨去の日付も7月10日とされた。

超えて17日に斂葬の儀が行われ、豊島岡墓地に埋葬された。

これにより、男系の後継者がいない有栖川宮は皇室典範の定めによって断絶が確定したが、威仁親王の教育を受け、身分を越えて親王を慕っていた大正天皇は有栖川宮の維新以降の功績を特に慮り、第三皇子の宣仁親王にその祭祀を継承させた。

薨去の直後の7月7日に元帥府に列せられ、大勲位菊花章頸飾が授与されているが、公式発表では生前に授けられたものとされた。

1995年 福田赳夫[ふくだ・たけお] (首相(67代),衆議院議員,外相(100代),農相(27代),蔵相(68・70・75代),行政管理庁長官(36代),経企庁長官(26代)) <90歳>[1905年1月14日生]

福田 赳夫(ふくだ たけお、1905年(明治38年)1月14日 - 1995年7月5日)は、日本の大蔵官僚、政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。

衆議院議員、農林大臣(第27代)、大蔵大臣(第70・73・74・78代)、外務大臣(第99代)、行政管理庁長官(第36代)、経済企画庁長官(第26代)、内閣総理大臣(第67代)などを歴任。

高等文官試験に一番の成績で合格し、大蔵省に入省した。

大蔵省入省から1年を経ずに、財務官付の役職でロンドンの在英日本大使館に派遣された。

当時の上司にあたる財務官は津島寿一である。3年半のイギリスでの勤務の後、帰国。

戦時中は汪兆銘政権の財政顧問をつとめるなどした。

その後は大蔵省の主計局で順調に出世して局長にまで登り詰めたが、1948年(昭和23年)の政府関係者に対する贈収賄が問題になった昭電疑獄の際に、大蔵省主計局長だった福田は収賄罪容疑で逮捕される。

結果として無罪にはなったものの、これを機に大蔵省を退官した。

2011年 和田慎二[わだ・しんじ] (漫画家『スケバン刑事』) <61歳>[1950年4月19日生]

ジャンルは少女漫画に分類されるが、作風としては壮大なファンタジーに加えて大胆なアクションを取り入れたものが多い。

中でも『スケバン刑事』は根強い人気がある作品であり、コミックは累計で2000万部を超えている。

また実写作品としてシリーズでテレビドラマ化されており、1985年にフジテレビと東映の制作により主人公・麻宮サキを斉藤由貴が演じた第1シリーズは高視聴率作品となった。

以後、麻宮サキ役は南野陽子、浅香唯が演じてこれらのシリーズも大ヒットした。

テレビシリーズ終了後の2006年には4代目となる主人公・麻宮サキを松浦亜弥が主演・深作健太監督作品として、18年ぶりに映画化された。