知られざる戦史2 軍艦旗の下の北洋漁業  | 戦車のブログ

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尖閣諸島では日中の攻防が日本の海保と中国の海警との間で繰り広がれている。
戦前の日本は国益を守るためにどういう対処をしたのか?
戦前の日本は北洋漁業が栄えていた。
しかし当時のソ連は日米開戦前の国際状況下において北洋漁業の漁船を拿捕した。

その時、昭和15年(1940)青森県大湊の駆逐艦隊でソ連の暗号解読を担当した海軍将校府本昌芳氏が書かれた手記がある。

昭和31年(1956)6月号の月刊「文藝春秋」に掲載された論文に「軍艦旗の下の北洋漁業」という手記である。

当時の府本昌芳氏は海軍大尉、昭和十四年、海軍大尉としてハルピンに駐在したが、その後、カムチャッカ漁業係長、在ソ大使館附武官となり、終戦時は海軍中佐、大本営諜報部對ソ班主任。

府本大尉は「ジューコフがノモンハンで日本陸軍をやっつけたのなら、俺はカムチャッカでベリアに一泡吹かせてやろう」という、無鉄砲な青春の血が燃えて、大いに気炎を上げ駆逐艦「神風」水雷隊長として任地に赴いた。

以下「軍艦旗の下の北洋漁業」より抜粋転載

「神風」は、同型の「沼風」「波風」「野風」と共に第一駆逐隊を編成、大湊要港部に配属されており、私はその副長相当の先任将校となった。

一九二二年に進水した「神風」は、その頃全くの旧式艦であったが、それでもこの駆逐隊こそ、帝国海軍が対ソ兵力として割当てた最精鋭部隊であった。しかも、大湊要港は場末の出店にふさわしく、取り立てててこれという施設もなく、おいぼれ司令官や威張り屋参謀などが、北辺の守りを固めていた。

 四月になるとカムチャッカ西岸へ向かうカニ工船が続々と出で立ち、ソ領沿岸のサケマス漁場へも仕込船が送られる。だが、駆逐隊は盛漁期になるまで、北海道周辺で訓練待機することになっていたので、二冊の暗号書は金庫の奥深くに仕舞いこまれたままであった。



「神風」は千島列島に沿って北上した。私は自信に満ちて、北海の波の音を聞いていた。

「神風」ほど安全な社会はないのだ。私はすべての乗員を信頼し、すべての乗員は私を信じてくれる、と考えていたからである。

エトロフ海峡を過ぎた頃、私は金庫を開けて、例の暗号書を取り出し、自分の机のひきだしに入れると、上甲板に出て、煙突の後の方位測定機室へ上がって行った。私はもう演芸係でも、性病予防官でもなかったのである。

 「どうだい、とれるかい?」

 「ペトロフとウラジオはよく入りますが、カムチャッカの沿岸局は、まだ感度がありません…」

 「そうか。願います…」

 私とX兵曹の二人、二台の受信器、二冊の暗号書、これがブラック・チェムバーのすべてであった。

 なかでも、X兵曹の技術は抜群であり、北千島に近づくまでには、カムチャッカ沿岸のソ連警備隊の無線局は、全部キャッチすることができた。

 駆逐隊は占守島の片岡湾に着いた。
ここを基地として待機し、いざという時には、四隻の駆逐艦が編隊を組んで行動する、という司令の方針が確認され、従って、ブラック・チェムバーの任務はなかなか重要なものとなった。私とX兵曹は、日夜受信機に神経を緊張させていた。

 六月も半ばを過ぎたある日の午後、私は例によって、暗号書を手にして翻訳にかかっていた。突然、私はハッと息を呑んだ。そこに出ている符字―ザゼルジャンノ(拿捕)!「ハリューゾフ地区隊発ペドロパウロフスク司令官宛。日本漁船を拿捕す。地区…」


私は飛ぶようにして艦長に報告すると、続いて司令室をノックした。

 「司令!拿捕事件が起こりました!」

 「何?ハリューゾフか?」

 八の字ひげの司令は、ギョロリと目玉を光らせた。

 「先任!各艦長を呼べ」

 私は上甲板に走り去る。
 「信号兵!略語のクカラ(駆逐艦長 来艦せよ)!」
 そう怒鳴ると、私は急いで兵曹のところに行った。

 「おい、事件だ!ハリューゾフの電報を落とさないように…」

 「承知しました。今夜は寝ないでやります」

 焦った四人の艦長は、司令を中心として、ウィスキーで乾杯すると、足取りも軽く各々の艦へ帰って行く。いよいよ出動準備である。

 前部発射管の両側に集まった水兵員に一応の指示を与えると、私は直ぐ部屋に戻って、暗号の解読を続けた。

 「日本船をハリューゾフ河口に抑留す」

 「日本人を尋問中…」

 どれもこれも癪に触るものばかりだ。

 「よし!ノモンハンの恥を雪いでやるぞ」

 私は傍にあったチェリー・ブランデーをひき寄せると、グッと一気に飲みほした。

 四隻の駆逐艦は、日本の最北端、国端崎を右後方に残し、白波を蹴立てて北上している。

 「ナ・セーブェル(北へ)…」

 私はブリッジの当直に立ちながら、ロシア語を口ずさんでみた。

東に見えるカムチャッカの山々は、白い雪で覆われていた。

マストが動いた!

「先任将校!司令が艦橋でお呼びです」ブリッジには、艦の司令と白面公子の艦長が肩を並べている。

「先任!ロシア語の解放要求書は書けたか?強い調子で書いてくれ。ハリューゾフに着いたら、すぐ行ってもらうからな」

私は傍にいた航海長I大尉に入港準備の作業指示を頼むと、士官室に下りた。そこではガッチリした身体のM通訳が解放要求書を清書している。

 「先任将校!こちらの名前は何としますか?第一駆逐隊司令ですか?」

 「いや、えーと、大日本帝国、北洋警備艦隊司令官、とね」

こうして職名だけは立派にでき上がったが、オンボロ艦隊の悲しさ、タイプライターがない。仕様がないから、大和魂のこもった美濃紙にカーボンを入れて、鉄筆で書くという仕儀になった。

おそらく珍重すべき古文書として、今頃はモスクワの赤軍博物館にでも行っていることだろう。

 一夜を海上に過ごした駆逐隊は、翌朝ハリューゾフの漁場に着いた。十二哩のソ連領海内に進入し、日ソ漁業協定による使用海面限度ー岸から三哩に錨を下ろした。

 「内火艇用意!特別臨検隊員整列!」

私はこういう場合を考えて、かねて目をつけていた、屈強で明敏なK兵曹、N一等水兵等を随えて、ソ連の漁場に向かった。

海は静かであり、漁場は平和そのものであった。最寄りのソ連の漁船に乗りつけて、手紙を渡し、すぐ引き返すつもりで、わたしも気軽な気持ちだった。

だが、見渡したところ、漁船は影も形も見えない。恐慌を来して引き揚げてしまったのか?それともトラブルを避けたソ連側の処置だろうか?力の示威が平和交渉を妨げたような形になってしまった。

 止むを得ず、私は一人で「無査証入国」を決意した。


軍刀をK兵曹に預け、一同を挺内に残して、私は砂浜に飛び下りた。丸腰になったことが、無法男のせめてものエチケットだったといえようか。

人の止さそうな中年の漁夫が歩いてくる。

 「ペレダイチェ」(渡してくれたまえ)

 差し出すと、彼は素直に受け取ってくれたので、幸いにも無事に艦に戻ることができた。

それから無遠慮なデモが始まった。
駆逐隊は日本漁船が抑留されていると思われる河口の沖三哩に一列に並び、昼間は操砲教育、夜は照射訓練で威嚇する。

 「日本艦隊、われを威嚇しつつあり」

 「調書を作製せよ」

べリア指揮下のぺトロの司令官と、ハリューゾフの地区隊長は、盛んに暗号を交換して、私に情報を提供した。

 三日目の夕方、私は思わずブランデーの瓶をひき寄せた。

 「日本船を解放せよ-司令官」

 こう来なくては…と私はいい気持ちになって部屋を出た。

 「…帰すそうです、司令!」

 司令は例の如く八の字髭をしごきながら、破顔一笑して、
 「先任!デカしたぞ!今夜は一杯飲もうじゃないか」

 更に次の暗号文で、私は全く安心した。

 「明日午後二時解放すー地区隊長」

 遂にその時が来た。

 私はブリッジに上がって、十二サンチの双眼鏡で岸を見守っていた。
「あ、動いたぞ、漁船のマストが…」

やがて、ディーゼルの軽快な音を立てて、漁船はやってきた。日本人の顔だ。みんな日本人だ。私はただ無性に嬉しくて、わけもなく彼等に呼びかけていた。

(「軍艦旗の下の北洋漁業」より抜粋)

拿捕された日本の漁船救出のために、日本海軍は旧式の駆逐艦4隻でソ連を威嚇し無事救出させた。

もし尖閣で中国の公船に日本の漁船が拿捕されたら、戦前の日本海軍のように対処できるだろうか?

舐められたら終わりだという外交の逸話でした。