2.26事件秘話 渡辺教育総監襲撃 2 | 戦車のブログ

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2.26事件は暗殺された遺族にとって過酷ことであった。
決起した青年将校目線で語られることの多い2.26事件、被害者側から見た2.26事件を紹介する。


暗殺された渡辺錠太郎陸軍大将は当時9歳の娘がいた。

次女の学校法人ノートルダム清心学園の理事長渡辺和子さんだ。

9歳の時、娘を守るために拳銃で応戦した父渡辺錠太郎教育総監を目の前で殺害された。


去年、よく渡辺和子さんがテレビ出演されていた。

その中で父渡辺錠太郎陸軍大将の思い出を語られておられた。

父親が帰宅すると飛びつくのが私の特権であったとにこやかに話しをされていたのがとても印象的であった。

渡辺和子さんは父が旭川第七師団長の時53歳のときの子だった。

4人兄姉の末っ子で次女として誕生した。

和子さんの略歴。

成蹊小学校3年生で9歳の時に二・二六事件に遭遇。父の居間で1mのところで、当時教育総監だった父が青年将校に襲撃され、43発の銃弾で命を落としたのを目のあたりにした。

18歳でキリスト教の洗礼を受ける。1951年聖心女子大学に通いながら上智大学で文書作成のアルバイトをし、1954年上智大学大学院(西洋文化研究科)修士課程修了。

29歳でナミュール・ノートルダム修道女会に入会。

アメリカへ留学し、1962年6月にボストンカレッジ大学院で博士号(哲学)を取得したのち、同年9月にノートルダム清心女子大学教授に就任。

1963年に36歳という異例の若さで岡山県のノートルダム清心女子大学の学長に就任(1990年に退任)。

長年にわたり教壇に立ち、学生の心を支え指導する。


和子さん誕生には逸話がある。

渡辺中将53歳、母すず子さん44歳の時である。

孫のような子供を産むのにためらいのあった母親に「女が子供を産むのに恥ずかしがることはない。生んでおけ」と進めたのは父親であった。

 渡辺大将は愛知県の出身、陸士8期生、陸大はトップで卒業する。その経歴を見ると、外国生活が長い。軍事研究のためにドイツへ留学(明治40年2月)、ドイツ大使館付武官補佐官(同42年5月から一年間)、オランダ公使館武官(大正6年)その後参謀本部付として欧州に在住、大正9年8月に帰国する。

「海外の軍事情勢に精通し、平素給料の大半を洋書の購入に費やすほどの勉強家で学者軍人と呼ばれたほどの人であった」と陸士52期で私とも親交のあった桑原嶽氏はその著「市ヶ谷台に学んだ人々」のなかでいっている。

2・26事件で学者肌でしかも中立派の渡辺大将が襲撃の対象になったのは疑問をもたざるを得ないが、時代の渦の中に巻きこかれたというほかあるまい。

 事件参加の野砲兵第7連隊第一中隊、砲工学校学生、安田 優少尉(陸士46期・死刑)の証言によると、総監殺害が目的ではなく、渡辺大将を陸軍大臣官邸まで連行して擧軍一体昭和維新の断行を誓わせようとしたのだという。


 屋内に侵入した安田少尉が「閣下に面会したい。案内してください」というと、すず子夫人は「どこの軍隊ですか。襟章からみると歩三ですね(一緒に参加した高橋 太郎少尉は歩兵三連隊第一中隊・46期、後に死刑)。帝国軍人が土足で家に上がるとは無礼でしょう。


それが軍隊の命令ですか。主人は休んでおります。お帰りください」安田はこういい返した。

「私どもは渡辺閣下の軍隊ではない。天皇陛下の軍隊である。どいてください」

だが、夫人は立ちはだかったままそこから離れようとはしない・・・。

 

和子さんは母よりも父になつき、父もまた孫のような和子さんを死ぬまでの9年間いつくしんだ。


和子さんの語る両親の話がある。

22歳年上の姉が子どもを産む年に母も私を妊娠しました。

「娘と同じ時期に子どもを産むのは恥ずかしい」と言った母に、父が「せっかく授かった子どもだから産んでおけ」と言ったそうです。

親の気持ちが胎児に伝わるといいますが、幼いころは母が嫌いで、父が大好きでした。

 事件の朝、母は三十数人の兵隊を阻止するのに懸命でした。

私が父のところに行くと、父は足元に立てかけてある座卓の後ろに入れと目で指示しました。私が隠れたとたん、軽機関銃が父をめがけて撃ちました。

一部始終を私は見ていました。

今、思うと、母も兄たちも立ち会えなかった大好きな父の死に立ち会うことができたのです。ある意味でうれしゅうございました。

 母はその後、「これからはお父様と2人分厳しくします」と宣言、実行しました。

また「私の唯一の趣味は子どもを育てること」と言い、本当に私たちだけのために生きてくれました。

87歳で亡くなりましたが、私にとっては世界一の母でした。


「私はPTSD(心的外傷後ストレス障害)みたいなもの、あまりないと思います。

軍人の娘として小さい時から厳しい母に育てられておりましたからか、涙一滴流しませんでした。母も涙一滴流しませんでした。

つまり軍人の娘、軍人の妻は泣くもんじゃない、というのが、芯の芯まで入っていたと思います。それがあったからでしょう、修道院に入って、こんなはずじゃなかったという気持ちを持ちましたけど、めそめそすることはありませんでした。

それは母からもらった財産だと思っています」


若い青年将校は決起して陸軍大将であり教育総監を暗殺した。

高橋少尉と安田少尉という若い将校であった。

日本の軍人は「政治に関わらず」と軍人勅諭にあるとおり政治に関わることはよしとしないもののはずであった。

自衛官も宣誓に「政治的活動に関与せず」と誓う。

その軍人が銃を使い政敵を襲撃して暗殺するようになれば国は歴史を見る通り亡国へと突き進むものなのかも知れない。

札幌にも渡辺大将が7師団長時代に揮毫した記念碑が残されている。

決して君側の奸などではなかった優秀な陸軍大将であった。