できるかできないかという主観について理解は進んだでしょうか。
一般的にはそれがあるのが当たり前かもしれません。
ただ大雑把なその評価は本質的には幻想です。
当然ながら特定性の高い中では客観的にそれを判断する必要がある
依頼された仕事を期限までに完了させられるかどうかというような
しかし着地点を設定しないままできるかどうかを検討するのは無為
これは基準が明確になっていない状態です。
つまり求められるレベルが不明瞭なわけです。
ちなみに基本的にそういった基準は外的なものです。
他者からの要請だったり環境がそれを規定する場合が多いと想像し
もちろん自身で設定すべき時もありますがその背景にも外的な何か
ともかく到達すべき状態がとらえられていなかったらできるかどう
まずは何を求められているかを的確に把握することが重要になりま
明示されていないとしたら潜在的に設定されているであろう基準を
ところが現実的にはそれなくしてできるとかできないとか思考が巡
評価軸のないまま独り歩きして考えてしまうわけです。
大抵それは何となくの感覚からくるものです。
相当に個人的なバイアスが含まれています。
例えば幼少期からできないと感じることが多かったのであればそれ
努力によってできる状態を維持してきたのであれば何でもできると
友達と比べてできないと思う体験が多かったのであればやはりそれ
やりたくないのをできないと置き換える癖があるケースもありそう
いずれにせよ目の前の現実ではない過去からくるものです。
そんなわけで認識を直接的に扱うために思い出すことが意味を持つ
要するにできないとかできるという発想を生じさせる根源にアクセ
もしかしたらこの取り組みをしようとするだけで切り離れることも
渾然一体となってしまっていた現在と過去を別個のものとして知覚
子ども時代のことはその当時のことで連続性はあるものの現在と同
こういった区別は非常に重要です。
当たり前ですが目の前のタスクであってもその内容によって求めら
雑だったとしてもスピードが求められることがある一方で丁寧さが
要するにケースバイケースなわけです。
だから一つ一つ別個のものとして知覚できる必要があります。
でも人間の認知はナチュラルにはそうもできていないようです。
大体それらしいことを一緒くたに信じ込むことで脳が楽をする傾向
できるかできないかという大雑把な自己認識もこのパラダイムだと
確かに価値観のベースが暗に共有されている狭い世界であればそれ
子どもの頃から知っている人としか関わらないような社会であれば
何となくの感覚が正解である確率が高いのです。
ところが現代はなかなかそうはいかなそうです。
このようにとらえてみると違ったものを区別する認識力がポイント
意外にこの不足が生きづらさの元凶であり能力発揮を妨げている気
谷 孝祐
2023.8.20