儚い存在の料理と音楽 | 3年前のしこうの楽しみ

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料理に対する立ち位置の変化に付随する気づきです。
ふと感じたことがありました。
無駄を受け入れるところが関係したのかもしれません。
 

ともかくそれは音楽との類似性です。
要るすに似たような性質があることを認識したのです。
いうならばその儚さでしょうか。
 

ただそこに感情的な意味合いは含みません。
むしろ客観的な性質を形容しています。
どちらも消えてなくなるのです。
 

生み出された瞬間にすでに別のものに変わっていきます。
多少はそのタイムスパンに違いはありますが似たようなものです。
そして受け取った人の心や感覚だけに残るものです。
 

もちろん録音や写真という方法はあります。
しかしそれは本質的に異なるものに変換されてしまいます。
いうならば時空の一点にしか存在しないということかもしれません
 

まさに諸行無常です。
これだけだったらスポーツ観戦なども同様かもしれません。
しかし視覚への依存性が低いという点で異なります。
 

目を閉じていても十分に楽しむことができます。
むしろその方が正しく感じられることもあります。
視覚で印象付ける料理もありますがその要素は本来とは違うように思います。
 

加えてアートの意味合いが入ってきます。
そこには結果を求める何かではなく純然に存在する何かがあるわけです。
勝ちではなく完璧なバランスを目指すということなのかもしれません。
 

目的志向ではなく在り方志向とも言えそうです。
今ここをどう生きるかと結びつく感覚です。
なので個人的にはその感性が高まったとも推測されます。
 

これは自己一致度合いを強めた印象です。
自分は自分でしかないという領域に入ったのでしょうか。
どことなくそんな気はします。
 

この受け取りは何をもたらすのでしょうか。
夏越の大祓に向けたポジション変化の一端なのかもしれません。
ひとまず音楽と料理の感覚をつなげて表現してみるようにします。

谷 孝祐
2021.6.30