能力を生かすエッセンス番外6 | 3年前のしこうの楽しみ

3年前のしこうの楽しみ

ブログの説明を入力します。

能力発揮が生きている責任という観点は持てたでしょうか。
何かのためであることが自分のためにもなる循環です。
本質的には理想的な生き方かもしれません。
 

まさに正の循環であり価値あることです。
当然ながら幸福感や充実感も伴うでしょう。
ただそれすら当たり前で自覚しにくい状態にもなりそうです。
 

ともかくそれは適正なストレスのみがある領域です。
建設的で発展的なマインドの中で日々が進んでいくことになります
だから理想的な人生にあたるとも解釈できそうです。
 

しかしエゴ的な視野ではなかなかこれを受け入れ難い場合もあるでしょう。
そこにまつわるリスクを避けたいためです。
自分を生かした結果として傷つくことはショックが大きくなるわけです。
 

存在を否定されたかのようなインパクトを持ちます。
しかもそれはあながち幻想とも言いきれません。
生きている責任を果たそうとしてうまくいかなければ生きる価値がないかのような自己理解に陥りがちです。
 

表面上の論理においてこれは矛盾がありません。
だからこそ強力なストップがかかることがあるのだと推測します。
しかしこのロジックには問題があります。
 

それは人間の性によるものとも言えるでしょう。
一度の失敗を全てに拡大解釈してしまうわけです。
もちろんさらに傷つくことを避けたいからこそのものでもあります
 

とはいえ発揮する意味のあるシーンを選定していないことが原因です。
どんなに有能であっても間違ったタイミンングで発揮すれば迷惑にもなりかねません。
いわゆるTPOが能力発揮にも関係するわけです。
 

時代背景など大きなフレームもそこに含まれるかもしれません。
ここからうかがえることは過去生とは大きく環境が異なっている可能性が高いということです。
もしそれによって殺されたことがあったとしても現代ではなかなか同じようにはなりにくいと考えられるでしょう。
 

ところがそこを整理して理解の上で納得しない限り潜在意識では同様のパターンを想起していたりします。
いずれにせよ幻想の中にいることに違いありません。
となるとそこから出ることが能力発揮において重要な要素にもなりそうです。
 

一方で足かせとなっている要素を炙り出すためには能力発揮が有効です。
まさにジレンマです。
ここはどうしたら打開できるのでしょうか。
 

あるアイデアとしてはうまくエゴを刺激することでしょう。
守りに入ることが結果的に死を意味する実感が持てれば能力発揮に加担してくれそうです。
自らそれなくして生きる価値なしと決めるわけです。
 

もしかしたらこれが本当の意味で自分を生かして生きる第一歩なのかもしれません。

谷 孝祐
2020.11.22