痛切にとらえていた才能の欠如 | 3年前のしこうの楽しみ

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先日の合唱練習後の気づきからの展開です。
音楽をやってきたことについて十分に受け取れていないと感じた件です。
当たり前すぎてそこまで扱うつもりにならなかったのでしょう。

現在につながるその意味を理解して満足していたのでした。
確かにそれだけでもかなりのエッセンスです。
真剣にそれに向き合ってきたからこそ今があることには疑いがありません。

そのくらいその世界で培われた力が重要だった実感はあります。
しかしよく考えれば通り一辺倒な解釈かもしれません。
だから音楽をやってきた意味があったと帰結しているのみなのです。

最も効率的な方法であった気はしますが完全にツールの位置付けに追いやられているわけです。
それを志向してきた主観は置き去りになってきたとも言えるでしょう。
つまり潜在意識的目的にフォーカスが当たりすぎたわけです。

ということで音楽に関わってきたことをより多角的に見つめてみることにしました。
すると頭部に突っかかりのようなものが感じられました。
固定観念的自己否定というものでしょうか。

その才能はなかったという理解が留まっている雰囲気でした。
思い返せばそういう自己認識があったものです。
当時は完璧主義でもあったので自分の演奏に満足することはほぼありませんでした。

いつだって失敗がつきものです。
本番でミスがなかったのはたった一度だけという状況でした。
それでも自己満足には至らなかった記憶があります。

だからといって自分の存在価値への否定とは結びつきませんでしたが観念にはなったわけです。
要はそれ自体をプラスに意味づけできていなかったのでした。
結果的に得られたものは大きかったけれど主観的には満たされていなかったということです。

なんとも自己不一致でしょう。
ただ客観的には音楽もそれなりにやってきたと考えられます。
理想には程遠くとも下手の横好きよりはマシだったことでしょう。

このように考えると当時の自分がまだまだ統合されていない感覚が出てきました。
簡単に言うと自己肯定できていないのです。
結局は諦めたことには変わりないという解釈なわけです。

完全に主体的に辞める選択をしたつもりだったわけですがそれは状況をみてのことです。
この諦めと選択の狭間にスタックしていたようでした。
まずはプロの端くれが最下層ではないことをとらえることにします。

ひとまず音楽的才能について悪くはなかったと思える方向へ近づけていく方針を置いてみます。

谷 孝祐
2018.11.27