今回の合唱練習後に次第に感じるようになったことがありました。
音のイメージと関係するのでしょうか。
直接的には別の話題ですがどこかつながっている気はします。
何となく自己一致感が高まってより深い課題が明らかになったのかもしれません。
それは受け取りに関することです。
最近は練習中に音楽理論も扱うところからの視点です。
楽譜に書かれていることをとらえる一環です。
ある意味で音楽の授業のようなことをしているわけです。
ここに投影が入っている自覚はあります。
無意識的に自分の理解レベルが通常だととらえているわけです。
客観的にみんながそれを分かっていないことは理解できているものの感覚がズレているのです。
もちろんすでに経験があって不要な人も一部いると思います。
だからなのかどことなく初歩的な話題で申し訳なさが混じるのです。
それでも最低限の基本は押さえておきたいところでしょう。
結果的に念のために伝えておくという立ち位置になります。
しかし実際には大多数にとって必要なことかもしれません。
教えていても想像以上にベースがないことを体感します。
中学時代に学んだであろうことも記憶になさそうだったりするのです。
当然といえば当然のことでしょう。
教育指導要領にあったとしても本当に授業で扱ったかすら怪しいものです。
そうでなくともテストのためだけの記憶では消えてしまいやすいものです。
でもそんな様子が自分には真新しく刺激になったようでした。
むしろ楽譜が読めないという状態が想像つかないのです。
これが明確に自覚されたのでした。
そこから意味を読み解けないということなのでしょうがだとするとどのように映るのでしょうか。
正直なところ不可解で興味深いものです。
嫌味や批判の意味合いは全くなくその状態がイメージできないのです。
子どもの頃から慣れ親しんでいるものはそうなってしまいやすいのでしょう。
ところがこれでは分かって当然という力が内在してしまいます。
相手に合わせて伝えることも難しくなってしまいます。
ということで未開の課題が自覚されたのでした。
同時にそこから転じてこの技能が自分にあることを受け取れていないことにも光があたりました。
大袈裟に言えば音楽経験を承認しきれていないのかもしれません。
確かにその実感は弱いものです。
当たり前すぎてその対象に上がったことすらなさそうです。
未だに人生のかなりのウェイトを占めてきた部分になるのでこれは大きな取り組みなように推測します。
しっかり向き合うことにします。
谷 孝祐
2018.11.24