ペース感に対する無意識的否定 | 3年前のしこうの楽しみ

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一週間半ほど前の構造的否定への気づきからの展開です。
よく考えれば他にも同様のものがあるような気がしてきました。
似たように追いやられた性質のものがあるのではという視点が出てきたわけです。

効率性については結果的にその本質に意識が向いて整理がつきました。
そもそも一般的な観点と自分のとらえ方がごちゃごちゃになっていたのでした。
そしてこれが否定に引っ張られた要因でした。

なぜだかそれに対して否定的な集合意識に共鳴が生まれてしまったのです。
これは効率至上主義へのストレスから出た反発のようなものかもしれません。
しかし自分にはほぼないと言える要素です。

概念が明確になっていないとこんなこともあるのでしょう。
確かに音韻が同じだけでも微細ながら共鳴因子になるわけです。
なのであればブラインドがもっとあってもおかしくないと感じたわけです。

許容のプロセスに意識がフォーカスされてできた影とも言えるかもしれません。
ということで改めて見つめてみることにしました。
本質的に持って生まれた要素が阻害されている部分がないかどうか探ってみたのです。

すると真っ先に思い当たったのがスピード感についてでした。
おそらく効率とも関連していたのでしょう。
ここには実質的な否定感も入り込んできていたようです。

つまり速く進みすぎてはいけないという感覚がいつの間にか生まれていたのです。
それは物事の理解や精神的成長のプロセスなどに関係しているようでした。
顕在意識化されずにストッパーのようになっていたのかもしれません。

ペースを落として周りにある程度合わせるような力がかかっていたのでした。
加えてここには速いと理解されない感が乗っかって強さを増していた雰囲気でした。
主観的にこれ自体を避けたいわけではありません。

各々のペースで進むのが望ましいというのが本音です。
しかし速さが誰かに否定と取られうることが許容のなさのように理解されていました。
結果的に足並みをある程度揃える立ち位置になっていたわけです。

また価値提供の適切さのためにも重視しているようでした。
受け取れないペースはNGという考えです。
なんだか随分とごっちゃになっていたと思います。

今思えばきっとボヤけた速度感になっていたことでしょう。
整理してみればシンプルなものです。
自分自身だけのことはマイペースで他者との関わりでは相手のペースも尊重すれば良いわけです。

こうやって気づくとふとこの価値観の方が許容度が高いと理解したのでした。
自分のことが引っ張られないのでどこまで遅くても平気なわけです。
そうなると本人にとって妥当でないスピードも見極めやすそうです。

個々のありのままのペースをとらえて適切に関わりたいものです。

谷 孝祐
2018.9.22