聴覚は視覚よりも不安定なものかもしれません。
考察を始めてそんなことを感じました。
端的に表すのは空耳というものです。
見る行為に比べて物理的に存在していないものを知覚することが多いのではないかと推測します。
これは聞き違えとは異なります。
音がないのに聞こえるということです。
そもそも一瞬で通り過ぎていくことがその要因かもしれません。
視覚に対して確認がしにくいわけです。
パッと目に映ったものもその直後に見えなければ存在しないものと扱われやすいでしょう。
なのでそれが聴覚では起きにくいと考えられるわけです。
そのため体験の共有のしにくさもありそうです。
聞こえたことを議論するようなことは見えたことに比べて少ないのではないでしょうか。
そこに言語化のしにくさも手伝うように思います。
そんなわけで個人差が非常に大きいと言えそうです。
良く言えばこれは肯定的ともとらえられます。
自分が聞こえたものが否定されることが少ないためです。
あるとすれば一般的には会話が成り立たない場合のみと推測します。
ただこれは意味上の問題です。
意味が通っていれば取り立てることもなさそうです。
それだけでなく言った言わないの議論は避けられる傾向もあるかもしれません。
結局のところ検証不可能性から出ないわけです。
分配が決まるとしたら人間関係における力学に依存してしまう気もします。
だからこそ契約書なるものが発展したのだと思います。
確実性を高めるために言ったことを可視化しておく必要があるわけです。
また実際には言っていないのに言った気になっていた経験も珍しくないかもしれまん。
こう考えるとかなり不確実なものの感じがしてきます。
さらに現代ではメールなどテキストでのコミュニケーションも増えています。
だから昔よりも生得した聴覚機能を伸ばす方向にもいきにくいと考えます。
結果的に本人にとっての聴覚認識は正確であるという解釈になりやすいのかもしれません。
ちゃんと聴けているかに意識を向ける人は多くはなさそうです。
これは聞こえたものを疑う機会を持たないことをも意味します。
ここにはズレが修正され得ないリスクが内在すると感じます。
そして変化し得ないもののようにとらえられてしまうのかもしれません。
同じ音楽が違って聞こえたら驚く人は多そうです。
とはいえ音を使った情報伝達は人類の基本とも解釈できます。
口伝なるものが時代を遡ればそれだけ普通だったと推定されるためです。
もしかしたらこの力を磨かないことが自分の価値観に囚われる主因なのかもしれません。
谷 孝祐
2018.6.29