何の刺激が原因だったのでしょうか。
ふと気づいたことがありました。
それは問題についてのことでした。
人が問題とする状況についてのこと言えるでしょうか。
ただ特に答えを求めていた自覚はありません。
直接的にそのことを考えていたわけでもありません。
以前にそれをトピックとして考察した記憶もありません。
かといって直感的にふってきたような体感でもありません。
関係ないところで湧き上がってきたかのようでした。
しかしどことなく意味がある感じもありました。
問題の本質論かもしれません。
その発生原因が顕在化したのでした。
もしかしたら論理学勉強会で否定について扱ったからかもしれません。
どことなく似た性質があるように思います。
さて本題です。
発想の起点は問題という存在自体が幻想なのではないかという仮説からでした。
結局のところ対象となる事象を問題と評価しているだけだという視点です。
つまり現象そのものが問題ではないということです。
言いかえれば問題は問題ととらえる人の心の中にのみ在るというところです。
ということでその発生源となる心の作用が気になったのでした。
ではどういう時に問題を感じるのでしょうか。
きっと思い描いた像と現実が一致していない時かもしれません。
特に望ましくない方向に進む場合は顕著でしょう。
大きな問題と認識するわけです。
当然ながら現状維持の像は思い描きやすいものです。
顕在化すらしないほど変わらないままの像を持っているのが一般的かもしれません。
変化しないことを問題視する時ですら変わらないことを前提としていることもあります。
本人にとって重要な何かを維持するために変わるべきものが変わらないということで問題が生まれるわけです。
年金問題や温暖化問題などマクロなものでも同様です。
そんなわけで逆に願わないことがなくなればそれだけ問題は消えて無くなるとも推測されます。
収入が減るにせよ別離が起きるにせよ病気になるにせよ受け入れられるのであればありのままの現実を知るだけのことです。
どうであれ目の前のことに対応することには変わらないでしょうが自分ごととして受け取るわけです。
年金がもらえないにせよ臨海部の都市が海に沈むにせよその憂き目に合わないポジションにいればニュースの中の出来事かもしれません。
自分が可能な助力を尽くすのみでしょう。
最終的にはただそこにある現象と関わるというだけのことです。
見たくないから消し去ろうというものではありません。
その結果として通常は望まない事象から学びが起こるのでしょう。
そうなればそれもギフトになる可能性は高そうです。
そんな立ち位置を大切にしていきたいものです。
谷 孝祐
2018.3.24 21:56