着床前の自分の記憶 | 3年前のしこうの楽しみ

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今週になってからというものあまり深く眠れていないような様子です。
朝方目覚めてしまうことが多いのです。
ただしスッキリと起きられる様子です。

そんなこともあって少し何かをしてからもう一度寝るということも多くなっています。
そういった流れの中で特に早く目覚めた日がありました。
まだ午前3時でしたがすぐに横になる気にもなれずせっかく時間があったので瞑想を始めました。

それは前日に読んだ本の影響だったのでしょうか。
結果的に今までにない面白い体験が得られたのでした。
まず座って白光をイメージしているといつしか出生についての考察へと意識が向かっていました。

胎児の精神活動や知覚能力について書かれていたものを読んでいたのでどことなく自分が胎内にいた頃の記憶につながっていっているような感覚でした。
しばらくそこで感じていたことを追体験しているかのようでした。
この時期の記憶といえば今まで安心感や心地よさに支配されていましたがより深いものが明確に認識できたようで母親の不安や心配までも感じ取っていた気がしてきたのでした。

それはもしかしたら生きることへのネガティブイメージをもたらしていたのかもしれません。
いずれにせよ言葉では表現しきれないささやかな抑圧感のようなものを知覚したのでした。
こうやって潜在意識のクリアリングが進んでいくのだろうと解釈してそのままでいると今度はある疑問が出てきました。

それは様々な考え方はあるものの神社で数え年を重視するのは霊的な意味もあるのではないかというものでした。
あくまで考察でしかありませんが例えばその年に生まれる魂が決まるのが年始であるという見方もできなくはないでしょう。
これが正しいかどうかはわかりませんが少なくとも自分にとってこの視点は刺激になったようでした。

結果的に受精卵ができる前に自分が生まれることが決まっていた可能性を感じたわけです。
それと同時に着床前の胎内におけるエーテル場としての自分にチャンネルが合ったようでした。
リチャード・ガーバー著の『バイブレーショナルメディスン』ではエーテル体は物質的身体の鋳型と位置付けられていますが、もしそうであるなら先にエーテル体が発生することは当然のことでしょう。

そして受精卵が胎内に用意されたエーテル場に重なることによって着床が起こりエーテル体としての役割が始まるのではないかという発想が浮かんできました。
その推察はさておきどうやら自分には受精卵という物質的身体の元を迎え入れる前の記憶があるようです。
明確にその状態であったことの感覚がある気がするのです。

ただそれはすぐに言語化できるほどものもではありません。
それを知覚しつつエーテル場の前の自分というものにも興味が出てきてそれ以前の記憶にアクセスしようとしてみました。
しかし何か壁のような力に阻まれて遡ることができないようでした。

仕方ないのでひとまずこの感覚をしっかりと覚えておくことにしました。
これがどんな発見につながるかは予想もつきませんがプロセスを楽しみながら解明してみようと思います。

谷 孝祐
2016.3.25 16:01