与那国でのダイビングの最終日のことでした。
前日の様子だと喉の状態は回復基調かと思っていたのですが、朝起きるとどうやら悪化しているような感覚がありました。
より広範に腫れているような印象があったのです。
加えて鼻もつまり気味でした。
ますます風邪っぽい状況になってしまったわけです。
そんなわけで、頑張らないと潜れないことが予想できました。
耳抜きもさらにうまくいかないことが予想されました。
それでも最終日ということもあり、以前であればそこまで気に留めずに潜ってそれなりに楽しんでいたと考えられます。
しかし、ふと布団に横になったまま思考を巡らせました。
それは潜るべきなのか否かという問題です。
潜ったとしても本調子でないからこそ体験できる何かはあるように感じましたが、そこまで体に負担をかける必要があるのかとも思いました。
何を優先するかが問われているようでもありました。
そんな中、ふと気づいたことがありました。
それは、最終日にあえて目的としてきたことを何もしないという選択を思いつくようなチャンスは、ほとんどないということです。
今までダイビングに限らずそんなことをしたことはありません。
そういうわけで、最終日というものに余計な意味付けがなされてしまっている状態であることが理解できました。
それと同時に、そこには集合無意識的な最終日に対する想いの影響もおおいに加担していることが認識できました。
ここまで知覚できてから自分の体の声をとらえようとすると、濡れたウェットスーツを着ていることすら負担に感じていることが分かりました。
これで休むことに決まりました。
滅多にないのんびりした時間を過ごし、パターン化されていた意識が緩んでいくことを実感でき、囚われていたことを俯瞰できたのでした。
体調不良でなくとも、適宜こういう時間をとれるように意識しようと思いました。
谷 孝祐
2015.4.7 18:23