自由への囚われ | 3年前のしこうの楽しみ

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もし今が多くの人にとって己の枠を壊すべき時なのであれば、自分自身にとってどのような課題があるのかということに意識を向けてみました。
特にそれが必要であるという現象や実感はないのですが、それが必要とされている人に何人か会ったということ自体が、何らかのメッセージを含んでいる可能性があるためです。
そこで、まず、あらためて枠を壊す意義を明確にすることにしました。

何のために今の枠から出るのかということです。
いろいろな理由はあるでしょうが、数人と接していて一貫している要素は、より自由に自分らしい人生を歩むようになるというベクトルに向かうことのように感じています。
そういう意味において、多くの人に今よりも自由になることを志向するのか、今の範囲の自由に甘んじるのかという選択が迫られているともとらえられそうです。

そこで、ひとつ気づいたことがありました。
絶対的な自由は存在しないということです。
つまり、自由はあくまで相対的な比較の中にあるわけです。

ということは、自由という理想化されたゴールは本質的にはあり得ないもので、自由を広げ続ける中にあるということになります。
それは、自由になったからもうここで完了としたところで、自由が損なわれる方向へ向かっていくということです。
確かにそう考えると、今の自由に甘んじるということは、今の不自由に囚われるということでもあり、今の枠に縛られるという意味になるでしょう。

そうやって、新たに得た自由な感覚は、固定化された日常に奪われていくのかもしれません。
今まで自由についてここまで考えたことはありませんでしたが、なかなか深みのある概念だというように感じます。
そうすると、一般的に自由と考えられる表面的事象は、あくまで囚われとの比較によって存在している投影でしかないでしょう。

それは、例えば経済的自由というものは本質的に存在していなく、経済的な囚われの投影の結果生まれてくるものであるということです。
このように考えていくと、自分は自由という概念に縛られていてその枠を壊す必要があるような気がしてきます。
そんなわけで、この本質をもう少し見極めていこうと思います。

谷 孝祐
2015.3.18 16:26