先日久しぶりにカラオケに行きました。
ひょんな流れで付き合いベースで夕食後に立ち寄ることになりました。
自分から主体的に行こうとは思わないので、良い機会といえばそうでした。
最近は誘われても時間的に行く余裕がなかったために足が遠のいていたという状況でした。
それくらい余裕がなかったとも言えますし、捻出してまで行きたいと思っていなかったととらえることもできるでしょう。
どちらにせよ、久々に歌うこととなりました。
そこで自分にとってのカラオケというものの存在が明確になりました。
そこに身をおいて人の歌を聞いても自分が歌っていても、楽しくもなければつまらなくもないのです。
対象に対してフラットな状態とはこういうものなのかと実感するくらい、全く反応がありませんでした。
それは、次回また行きたいとも行きたくないとも思わない状態でもあります。
つまり自分にとって何でもないものだということです。
自分の中で何が変化したのかわかりませんが、気づいたらそうなっていました。
もしかしたら、以前よりも研ぎ澄まされた感性が、今までカラオケにつけていた余分な意味づけを削ぎ落としたのかもしれません。
それを認識すると、そこから違った価値観が生まれてきました。
カラオケに行くという行為が時間に余裕があることの象徴に思えてきたのです。
良いとも悪いとも何も感じないことに、価値を見出さないものに時間を使うことができることは、余剰があることを意味するからです。
そう思うとその時間がある種の豊かさをあらわしているかのように思えてきて、満たされた感覚が少し高まりました。
そして結果的にカラオケの有用性が認識されたのでした。
心理的関わりが明確になると自然と対象を違った視点でとらえられるようになるということが体験できたのでした。
タイミングが合えば行けるようにしていこうと思ったのでした。
谷孝祐
2014.8.19 20:38