他責にも自責にもしないという価値観が生まれてきましたが、何とも不思議な感覚があります。
通常であれば、これはありのままを受け入れる状態でしょう。
しかし、どこかそれとも違うように感じます。
話の発端が、原因をどこに求めるかということから始まっていたからでしょうか。
自責にも他責にもせずに、そのままで良いという感じでもないわけです。
では、この状態においてどのように改善を考えれば良いのでしょうか。
そもそも責を求めずに改善点を見つけることはできるのでしょうか。
ここで発想の転換が必要なのでしょう。
責を求めないということは、悪かった部分を探すという方向では改善点を見つけることができないということかもしれません。
なぜなら何かを悪にした時点で責が生まれてしまうため、誰も何も悪くないという前提をおく必要があるためです。
すべてが対等でフラットな状態です。
つまり、改善という言葉も適切でない可能性もあるでしょう。
そうすると悪くないなら直さなくて良いという発想も出てきそうですが、ここから進むためには、より良くするために変える部分を見つけるという発想が必要そうです。
つまり何も悪くないしこれでも十分良かったけど、もっと良くするにはどうすることができたのかという立ち位置です。
もしくはうまくいったけど、もっとうまくいく方法は何だったのかという思考です。
もちろんこれを支えるメンタリティーができていなければ、不一致を起こすので機能しないでしょう。
少なくとも枯渇した意識からは不可能で、自分を偽る方向にいきそうなので注意が必要です。
なので、あくまで自然にそうとらえるようになってから使う視点かもしれません。
この視点でとらえられるなら、変化は必要に迫られたものではなく、主体的に引き起こしていくものとなります。
そうすると、何かを変えていくことへの抵抗は極小化され、より自由になるのかもしれません。
そんな感覚を味わっていきたいものです。
谷孝祐
2014.4.17 17:47