一期一会の体験 | 3年前のしこうの楽しみ

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人生の豊かさをはかるのは難しい。
なかなか計量できるものではないし、計量できたとしても、それが豊かさを陳腐化させる原因になってしまうようにも思う。
だからといって、ただ感覚的なものだと片付けてしまうのも雑な感じがする。

客観的に数値として表すことができなくても、主観的に自分の豊かさをはかる指標を持つくらいの方がバランスが良いのかもしれない。
そういった基準を持つことで、より自分の得ている豊かさを実感したり、感覚だけではない知覚、例えば思考などへもその豊かさを広げやすいのではないだろうか。

いくら豊かな体験をしていても、本人の頭がそれを理解していないということはあるものだ。
そうすると、その本人は豊かさを十分に味わうことができない。
それは勿体ないことかもしれないし、ある種の虚構の中でしか生きられないということなのかもしれない。

なぜ頭での理解も必要なのかというと、豊かな体験は一過性のものである場合が多いからだ。
なぜなら、それは様々なものが強調しあって生まれるからである。
つまり、豊かな体験はその瞬間にしか存在しないことが多いということだ。

固定的に存在しているように見えることがあっても、おそらく瞬間の連続がそう見せているようにすら思える。
そういう性質のものを自分のものとしてとらえておくには、感覚で得たものを頭で理解し記憶しておくことである。
つまり、豊かさを感じたら、それを理解し記憶することで、豊かさを十分に受け取れるということだ。

理解といっても、何も説明がつかなくても良く、自分自身が納得できるものであれば十分なように思う。
しかし、感じているという前提があり、感じている以前に頭であれこれしてしまうことにも弊害はある。

そういう意味では、少し不十分くらいな理解の方が適切なのかもしれない。
そんな中で、一期一会の体験を受け取る感覚とそれを理解する思考があることは、豊かさを感じる上で根本的であり究極的なように思う。
一期一会の体験をたくさん積み重ねることができる感性は、豊かさの完成そのものなのかもしれない。

2013.3.23 20:00 谷孝祐