伝えることの難しさ | 3年前のしこうの楽しみ

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何かを伝えることは案外簡単ではないように思います。
そんなことを考えながら、先週くらいからこのブログのテイストを変えてみました。

二月後半のころは分かりやすいように、誤認が起きにくいように、丁寧に表現するよう心がけていたのですが、それが逆に難解なように感じられた方もいたようです。
数名から、そのようなフィードバックをいただき、最近は軽さを出すようにしています。

こちらは分かりやすくなるように細分化してできるだけ明文化されない要素をなくそうとしていたのですが、それは意図とは逆に論理的思考一辺倒の分かりにくさを感じさせてしまったようです。
ここから再認識させられたのが、自分の理解していることを正確に伝えることがいかに難しいかということでした。

正確に伝えようとすればするだけ提示する情報量を増やす必要があり、逆に全体像を掴みにくくなったり、受け手がイメージで受け取ることが難しくなるために論理からイメージを組み立てるのが得意な人以外には向かないということを理解しました。
だからといってイメージ先行になりすぎても誤認を生みやすく、場合によっては逆の解釈になってしまうこともあるでしょう。
このジレンマの中でバランスを取ることが重要なのかもしれません。

そのように考えると、受け手が正確に理解できるように伝える意図すら必要ないようにも思います。
それはある種のコントロールになるととらえることもできるからです。

正確に理解するかしないかは受け手の自由であって、発信者が意図すべきところではなく、委ねるべきところなのかもしれません。
それが受け手を信頼することであり、結果的に一番歪みが少ない形で伝わる可能性があります。

そして、受け手が正しく理解したければ、自身の努力によって噛み砕くことで自分のものにしていくというプロセスを選択することで、最終的には正確に伝わるという性質のものなのかもしれません。
それが日本語の特徴であり良さなのでしょうか。

これは極端な発想なようにも思いますが、そこに日本語の本質があるようにも思います。
もちろん、伝わらなければ弊害が出るものについては、そんな悠長なことを言っていられないかもしれませんが、そういった性質を理解しておくことは有益なように思います。
結局は状況に応じたさじ加減ということでしょうか。

2013.3.12 20:49 谷孝祐