時間の実体 | 3年前のしこうの楽しみ

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昨日、今日、明日という概念がある。
過去、現在、未来という概念がある。
昔、今、将来という言葉がある。

どれも基本的には時間というものを表現している。
あまりに日常的に使われる言葉なので、あえて考えることもないようなことかもしれないけれど、これらの表現は時間というものを上手に形容しているようにも思う。

観念的には、このそれぞれの概念は並列である。
つまり、昨日と今日と明日、過去と現在と未来、昔と今と将来、このそれぞれが一般的に同等な重みを持っているように使われていることが多いように見受けられる。
これらを一緒くたに扱うのは無理があるかもしれないけれど、実際には並列ではないのではないだろうか。
なぜなら、今日の今現在が基準となっているであろう概念だからである。

よくよく考えれば、人間は過去に移動することができなければ未来に移動することもできない。
あくまで現在が連続しているだけである。
そういう意味では、過ぎ去りし現在が過去であり、未だ来ていない現在が未来ということになる。
もし、今日がなければ昨日も明日も存在しないし、今がなければ昔も将来も存在しえないのだ。
結局は、今にしか生きることはできないのである。

時間は過去から未来に流れているように思われがちだけれど、実体としては現在があるだけ。
それ以外は、便宜上の概念である可能性が高い。
だから今に生きるというのは、あえて目標にするようなことでもないのかもしれない。

しかし、こういった概念を用いることで、意識は現在ではないところへ行くことが可能になる。
それは、過去の記憶の中なのかもしれないし、未来の希望の中かもしれないし、昔あった喜びの中なのかもしれないし、将来の不安の中かもしれないし、昨日のわだかまりの中かもしれないし、明日の楽しみの中なのかもしれない。
けれど、そういった諸々のものだって、今現在、その人の中に存在しているからこそ意識が向けられるわけであって、ここにある以外の何ものでもない。
あくまで時間という概念の中で、投影しやすいところに映しだしているのにすぎないのかもしれない。

だからこそ、今ここにあるものとして扱わない限り変容しないのだろう。
もし、時間に縛られると感じるなら、正確には今現在の自分自身に縛られているということなのかもしれない。
それに気づくことが、時間から自由になることの本質ではないだろうか。

2013.2.13 01:59 谷孝祐