概念の妙、観念の弊害 | 3年前のしこうの楽しみ

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概念の妙、観念の弊害 カフェより、レストランより、そして部屋より、古都トレドの街並みを眺めながら思い浮かんだことがありました。
このトレドという街はローマ時代より栄え、首都となったこともある場所であり、16世紀から街並みがさほど変わっていない場所でもあります。
古き良き時代を伝える生き証人ということもできますし、変わることのできない世界ということもできるかもしれません。

そんな街が何かを訴えてくるわけでもありませんが、変わらないことの長短を教えてくれるように思います。
地球上にもともとは境界線など存在しなかったはずですが、そこにあえて線を引くことで、領域というものを明確にすることができました。

それを国と呼んだりするわけで、時の主権者の影響力の範囲を表すわけですが、それはあくまで概念上のものであり、物事が正しく知覚できない存在のために、分かりやすくする目的で行われていると考えることもできると思います。
もちろん、それを人間が意識して行った確率は高くないでしょうが、神と呼ばれるような存在がいるとして、人間の無意識 に働きかけ、エゴを刺激し、そのようなシステムを作ったとも言えるかもしれません。

そもそも国というもの自体が概念であることからも、本来線を引くことのできないエネルギー世界や情報世界に概念付けという領域の明確化を行うことで、今まで理解できなかった世界観を理解しやすいものへと近づけてくれることでしょう。
そういった意味で概念というその言葉の持つ領域を明確にすることで、理解が進みやすくなることは多いでしょう。

しかし、一方でその概念が固着化し、観念となった時点で、弊害を生み出す可能性もあります。
それは、古都トレドが街のキャラクターを明確に示したことによって、そのキャラクターを変えることが難しくなったことに似ているかもしれません。
理解の一助としての概念が、100%その通りであると思われた時点で観念へと変容し、別の見地からの切り分けを難しくさせます。

あえて言うならば、理解をしやすくするためのものが、逆に理解の妨げになりえることがあるということです。
それは、新たなものを理解するためのジレンマなのかもしれません。
このジレンマを乗り切った時に、本当の理解が生まれるように思います。

ということは、もし人間が精神的に進んだ場合、概念というものは減っていくのかもしれません。

2012.10.31 05:21 谷孝祐