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日本高等学校歴史教科書の韓国関連内容分析 

1、序言
  国際理解の必要性が強調される現代社会では韓国の対外的なイメージは改善されつつあるが、日々成長している韓国の国力と比べると相対的にその実情が国際社会に知られていないし、またきちんと伝わっていない場合が多い。
国際理解教育は国際化時代に備え必修的準備教育だと言える。
このような国際理解教育は、世界に対する認識が固定されてしまう前の6歳から14歳までの生徒達により効果的だという主張がある。2) 実際にこのような年齢層に外国の歴史や文化、地理などの知識をたくさん教えている現実を見ると、彼らに教科書で一度教えたことが、かなり長い間基礎知識として影響を与えている。 このように外国のイメージ形成に対して、教科書は重大な影響を与える。教科書の歪曲問題は単なる内外的な問題だけでなく、両国の間の過去の歴史的事実関係以上に、現在の文化的な面においても重大な問題となっている。
 1982年に起こった ”日本歴史教科書歪曲事件”が飛び火となって以来、現在に至るまで、韓国教育開発院は約250の教科書を分析し、韓国史の歪曲問題を提起してきた。
日本の教科書の記述傾向はあまりにも自民族中心で、日本の優越性を強調し韓国を卑下している。 韓国関連内容は世界のどこの国の教科書よりも相対的にたくさん書かれているが、厳然たる客観的な事実を意図的に隠ぺいするなど、歪曲の程度があまりにもひどい。
日本の教科書のこのような内容は、生徒達に韓国に対するゆがんだイメージを植え付ける心配があるだけでなく、他国の教科書にも否定的な影響を与えており、韓国のイメージ改善の障害となっている。
日本の高等学校教科書は1989年に改定された教育過程によって新しく編纂され、1994年から使用されている。
この報告書はこのような変化に合わせて、新旧教科書に記述されている韓国関連内容を、時代別、主題別に主要な史実の記述を比較し、日本の教科書がどのくらい正しく記述されるようになったか調べてみたい。
1)この文章は李讃 他3名の共同研究による「日本高等学校歴史教科書の韓国関連内容分析」韓国教育開発院PR92-2-2の一部を整理したものである。
2)Remy,R,C.et al.,international Learning and International education in Gloval age,Wshington D.C.,NCSS,1955.
2、分析対象教科書
 分析した教科書は高等学校の世界史、日本史、新旧版教科書の各4種類で、旧版は主に1982年の教科書歪曲事件前に発行されたもので、新版は1993年に文部省検定を受け1994年から使用されているものである。
教科書は出来る限り同じ出版社で、同一著者が執筆した新旧版教科書を対象にその変化の推移を分析してみた。
分析対象となったのは、日本の高校で採択率が高い出版社の教科書で、日本史は約86%が、世界史は約74%採択されている。(内外教育1993参照)
3、新旧教科書の韓国関連記述内容分析
内容分析の重点は教科書の韓国関連内容が、10年の間にどれだけ変化したか、韓国側の是正要求がどれだけ反映されたか分析してみた。
 韓国関連内容が変化する様子を時代別に概観してみると差が大きく現れている。
古代中世史分野はほとんど変わっていない反面、近現代史分野はとても肯定的な変化を見せている。
このような変化は1982年教科書歪曲事件以後の韓国側の粘り強い是正要求の結果と分析できる。
 古代史分野において、韓国史を正しく理解するために、一番重要な問題である韓国史の起源と漢群県問題は山川出版社「詳説世界史」だけが”東北方面では衛氏朝鮮(紀元前2世紀に中国から亡命した衛満が朝鮮西北部に建てた国)を滅ぼし、朝鮮北部へ楽浪群等の4郡を設置し”と(新教科書P61)単純な事実を追加しているだけである。
特にこの主題は韓国の自主性と密接に関係しているためとても微妙な問題である。 韓国史の最初の記述は紀元前2世紀末漢の武帝の漢郡県設置から始まっているが、これは韓国の古代国家が中国の影響を受けて形成されたという論理である。
このような記述は韓国史の他律性を浮き彫りにし、韓国の文化を中国の周辺部、ないし亜流だという認識を基礎としている。そこで正しい記述としては”古朝鮮と独自の青銅文化の発達”を必ず記述しなければならない。
先の記述の、武帝が韓半島に漢郡県を設置したという事実を否定することはできないが、韓国の最初の国家である古朝鮮が抜け落ちたままで、漢郡県の設置と中国文化の影響だけを強調することはとても深刻な誤謬だと言える。
任那日本府説も同じように東京書籍の新選世界史だけが”4世紀に誕生した大和政権は中国と朝鮮から文化を受け入れて国内の統一を推進した。”(新教科書P59)と日本の弥生文化が韓半島の影響を受けながら形成されたことを明らかにし、任那日本府説を削除する肯定的な変化を見せている。しかし残り7種の教科書には相変わらず、この説が古代韓日関係史として記述されている。
また注目されるのは直接的な表現を避けて、”大和朝廷の朝鮮半島進出”のような間接的な記述になっていることである。
また任那日本府説を根拠に好太王碑文(広開士王碑文)を提示し解説しているが、これを脚注にするという巧妙な方法を使っている。
反面古代韓日関係に関する記述は4種の教科書に言及されていて、朝鮮半島の影響を縮小していた旧教科書とは違い、3種の日本史教科書がその影響を明示するようになったことは古代史関連の中で一番大きな変化である。
 中近代史は古代史と同じく大した変化を見つけることはできなかった。
しかし実教出版者の「新日本史B」が6つの主題分析中、2つにおいて肯定的な内容になっている。
近中世史の場合、出版社別に差があることがはっきりわかる。朝鮮の国号と関連して、正式名称である朝鮮王朝と表記されている教科書は、実教出版の日本史で旧版の表記李氏朝鮮から朝鮮王朝に変わっている。(1392年高麗王朝を倒し、成立した李成桂の朝鮮王朝 実教出版日本史P74) 山川出版の新旧日本史教科書は全て朝鮮という正式国号を使っている。
しかし大部分の教科書には変化が見られず、朝鮮社会に対する否定的な認識が反映されている。 これは朝鮮王朝を高麗王朝の延長と見なそうとする傾向である。
中世から脱皮し、近代へと発展した朝鮮王朝を正しく認識するためにも、正式な国号の表記を緊急に要請したい。
  壬辰倭乱に関連する内容については、東京書籍の新選世界史と実教出版の新日本史Bが肯定的な変化を見せている。主に従来の朝鮮侵略の名分であった明を征服するために必要であった通り道という虚構性と侵略性を指摘する内容となっている。
朝鮮通信使と関連する内容では、実教の旧教科書には単純に”修好を目的”と表現し、文化的経済的影響は省略されていたが、新教科書(新日本史B P110)だけが、通信使の文化的役割をとても正確に記述している。
幕府が朝鮮の優れた学問と技術を学ぶ為に、通信使を要請したことを明らかにし、かなりの文化的な影響を正確に記述している。
中近世史の中でもう一つ注目するべき点は、東京書籍の新選世界史をはじめとして、3種の世界史の教科書に肯定的な内容が記述されたことである。
 近現代史分野で、注目するべき点は東京書籍の新選日本史をはじめとする3種の世界史の教科書に目ざましく肯定的な変化を見せる内容が載ったことである。 特にミン妃殺害事件と皇国臣民化政策、従軍慰安婦、韓国戦争等の主題は大部分の教科書が肯定的な変化を見せている。
 まず日本の侵略過程と韓国人の抵抗が正しく評価されている。
東京書籍の新選日本史は、日清戦争が、日本の大陸侵略政策下において発生したこと明かにしつつ、日本の主権略奪に対する義兵運動と安重根の義挙を正確に記述している。
第一学習の新日本史B(P170)は名前を出さずに韓国の青年と表現しているが、伊藤博文暗殺を射殺と表現し、安重根の行為の正統性を認めている。
関東大震災においても、4種の日本史の教科書が肯定的な変化を見せ、朝鮮人虐殺原因ととその数字を正確に明らかにしている。
特に、実教出版の新日本史B(P186)は”地震と火災の大混乱の中で ’朝鮮人が暴動を起こした’等の民族的偏見に満ちた流言飛語が広まり、軍隊と警察、そして民衆が約6700人の朝鮮人と700人の中国人を虐殺した”と記述し、流言飛語が民族的偏見によって発生したことを正確に指摘する肯定的な変化を見せている。
 日本の植民地政策についての記述は今まで言及しなかったり、省略したりする傾向にあった。しかし新教科書の大部分に武断統治と皇国臣民化政策に対する内容が追加されている。特に皇国臣民化政策は8種の教科書全てに追加されている。
内容を見てみると”日鮮同祖論”と”内鮮一体”を主張しながら強制した、神社参拝、創氏改名が民族固有の伝統を抹殺する目的をもっていたことを認めている。
 近代史分野において一番論議を巻き起こしていたのが、従軍慰安婦問題である。
これは日本が犯した一番の非人道的な犯罪であり、現在補償問題とも関連している最も微妙な事項である。
8種のうち4種の日本史教科書に従軍慰安婦関連記述が見られる。
このうち実教出版には旧版より、徴用、徴兵に対する具体的な事実を追加しており、注目されることはこの事実を是認していることである。
”日本兵士のために朝鮮人等の女性を従軍慰安婦として動員した”(P197)とし、従来の工場で働いていた挺身隊とは区別して説明している。
山川出版(P332)もこの2つを区別し、未婚の女性が軍慰安施設で働いていたことを新教科書に追加している。残り3種の教科書も同じ内容が書かれている。
 4種の世界史教科書には従軍慰安婦関連内容が記述されていないが、これは意図的にしたのではなく、もともと世界史の教科書の記述は省略されるためであると分析される。
しかし従軍慰安婦という用語は軍隊慰安婦に是正されるべきである。
 近代史でもう一つ注目されることは、金日成の抗日運動である。
日本の教科書には今まで1930年の臨時政府や光復軍の活動について言及せず、金日成の抗日運動のみ当時の代表的な運動として評価してきた。
しかし東京出版社の世界史と実教出版の日本史において、新教科書ではこの内容が削除された。 金日成の抗日運動は彼を神格化し、北韓政権を正統化するために、大部分創作されたものである。この削除はたいへん望ましい変化である。
またこれと関連した韓国戦争についても変化が見られる。
南北に対して等距離の外交姿勢を守ってきた日本は、この戦争を修正主義的視覚で、状況説に立脚して記述してきた。
韓国戦争が南北双方の国境衝突が拡大して起こったという論理である。
しかし新教科書では東京出版の新世界史をはじめとして、5種の教科書が南侵説で、この戦争が発生したと記述されている。
4、結び
 以上のように8種の日本史世界史の教科書を検討してみた結果、いくつかの重要な変化の過程を見つけだした。
1つ目は、前近代史分野では変化がほとんどないのに対して、近現代史分野では著しい変化が見られる事である。これまで韓国側が近代史分野の是正要求に重点を置いた結果と思われる。
ついで新教科書は、近代史において、日本の侵略性を認め、武断統治、皇国臣化政策のような過酷な植民統治や従軍慰安婦を是認する等、かなりのぞましい変化をみせている。
しかし前近代史では韓国の自主性を否定する認識が、相変わらず残っている。
漢郡県設置、任那日本府説などが、その典型的な例である。
このような論理は中世史や近代史と流れを同じにしている。
13世紀には高麗が元の属国であり、朝鮮は明、清の属国であったという記述が目につく。これは韓国史の他律性を強調するためであって、この他律性の歴史のために、日本の植民地になる他なかったという論理に帰結させることもできる。
 このような論理は日本の高校の世界史教科書が、強大国中心に記述されているためであり、日本史教科書は自国中心に記述されているためである。
また他の理由としては、教科書執筆者の韓国に対する誤った認識のために発生することが挙げられる。これは出版社別に韓国関連内容に差が現れていることからも確認出来る。 強大国中心の歴史記述においては、特に中国の文化と勢力の拡大を記述しながら、韓国を含めた周辺国家の様子が現れる。中国中心の歴史構成ではこのようになるしかない。
中国の国力と文化が、東アジアでは格別であることは確かだが、それが東アジア世界全部を占めているというのは偏見である。
またこのような記述では、韓国を含めた自主的な発展について見落としてしまう。
中国の支配対象ではなく、独立した国家としての韓国の姿が、教科書に反映されなければならない。
 前近代史において、もう一つ指摘されることは外勢からの侵入に対する韓国人の抵抗が抜け落ちていることである。漢郡県の設置も、韓国人の抵抗によって廃止されたし、強大な随、唐といった帝国の侵入に対する高句麗の抵抗と勝利、元の侵入に対する高麗の40余年にわたる抵抗は、他のどの国にも見られない韓国人の抵抗精神である。
だからこそ外勢の侵入や干渉だけを記述する態度は、韓国史の正しい認識と記述のためにも見直されるべきであって、韓国人の抵抗や自主的に対する努力を取り扱うべきである。
 2つめとしては、先にも述べた近現代史分野に目ざましい変化が見られたことである。これらは執筆者達の韓国史に対する変化と見られ、従来の侵略の歴史の正統化や省略の姿勢から脱皮したと言える。
そしてもう一つの変化として、何よりも望ましかったことは日本の韓国併合に対して、韓国人の猛烈な抵抗を受けたと言う事実を正確に記述したということである。
そしてその抵抗に対し、過酷な弾圧をしたという事実を認め、植民地政策の具体的記述を通して、過去の日本の帝国主義の過ちを明白に記していることである。
このように望ましい変化をみせているが、追加と補完が必要な部分がある。
韓国の解放に対する記述が不足している部分である。
韓国の解放→日本の敗戦→米ソ両軍の進出→南北の分裂→韓国戦争という図式を示しただけで、韓国の開放についてより詳しい説明が全くない。
このような記述では日本が連合国に負け、その後日本の代わりに米ソの支配を受け、南北韓が成立したという論理になる。そこで解放までの韓国人の自主的な力についての言及は絶対必要である。 これに関連しては、日帝に対抗しながら戦い、独立の準備をしていた大韓民国臨時政府と光復軍の活動が追記されなければならない。韓国の解放は日本の敗戦が、要因ではあるが、独立に対する韓国人の努力の結果でもあるからだ。
 3つめに、教科書の韓国関連内容がの望ましい変化を見せていることは事実だが、全体的な韓国史像には相変わらず、他律性と停滞性が散見されることを指摘しなければならない。このような傾向は学問的政治的な背景を基にしている。
学問的な背景を見てみると、1970年からは敗戦前の皇国史観的韓国史認識を持つ日本の韓国史研究者は表面的にはいなくなった。しかし日本の歴史教育に影響を与える元老格の研究者や官僚に、このような認識が完全になくなってはいない。
また表面的には変化していても根本的な韓国史認識は変わっていない。その代表的なものが植民地支配施恵論である。
これは政治的要因と結合して、精巧に整えられていっている。
日本が世界の経済を主導する今、韓国の経済が日本に近づき、新興工業国の中でも上位をいくようになるにつれて、植民地恩恵論が日本の執権勢力によって、公然と主張されている。
この問題に対しては今後も持続的に研究し、是正要求をしていかなければならない。
 日本の 高等学校歴史教科書は、国民に世界と、その中の日本を認識させる一番基本的な本として、国民の思想形成における役割はあまりにも大きい。
これらに記載されている韓国関連内容を全体的に見ると、内容の一部でしかないが、高校生達の韓国認識に大きな影響を与えると思われる。
特に日本日本の植民地支配に由来する誤った韓国観、韓国史像を、正しく認識するためにも、教科書中の韓国史記述については格別な注意が必要である。
韓国史が、日本とは別の独自の発展を遂げた外国の歴史であることを、認識する必要がある。
しかしその一方で日本人にとって単純な外国史ではなく、古代より密接な関係があったことも理解する必要がある。
また何十年前には日本が韓国を植民地支配したために、他の国とは違い特別な意味を持つ外国史でもある。
そして現在も政治経済の同伴者として密接な紐帯関係にある。
韓国に対する正しい理解は、両国の未来の発展のためにも一番大切である。
この点においても、日本の歴史教科書は、韓国関連内容について真実を記述するべきである。


後漢書東夷傳 巻八十五 東夷列傳第七十五

序 王制云、「東方曰夷。」夷者、柢也。言仁而好生、萬物柢地而出1)。故天性柔順、易以道御、至有君子、不死之國焉2)。夷有九種3)。曰・夷、于夷、方夷、黄夷、白夷、赤夷、玄夷、風夷、陽夷4)。故孔子欲居九夷也。
1)事見風俗通。 2)山海經曰、君子國衣冠帶劒、食獸、使二文虎在旁。外國圖曰、去琅邪三萬里。山海經又曰、不死人在交脛東、其爲人黒色、壽不死。並在東方也。 3)竹書紀年曰、后芬發即位三年、九夷來御也。 4)竹書紀年曰、后泄二十一年、命・夷、白夷、赤夷、玄夷、風夷、陽夷。后相即位二 年、征黄夷。七年、于夷來賓、後少康即位、方夷來賓也。

昔堯命羲仲宅嵎夷、曰暘谷、蓋日之所出也1)。夏后氏太康失徳、夷人始畔2)。自少康已後、世服王化、遂賓於王門、獻其樂舞3)。桀爲暴虐、諸夷内侵、殷湯革命、伐而定之。至于仲丁、藍夷作寇4)。自是或服或畔、三百餘年。武乙衰敝、東夷・盛、遂分遷淮、岱、漸居中土5)。
1)孔安國尚書注曰、東方之地曰嵎夷。暘谷、日之所出也。 2)太康、啓之子也。槃于游田、十旬不反、不恤人事、爲・所逐也。 3)少康、帝仲康之孫、帝相子也。竹書紀年曰、后發即位元年、諸夷賓于王門、諸夷入 舞。 4)仲丁、殷大戊之子也。竹書紀年曰、仲丁即位、征于藍夷也。 5)武乙、帝庚丁之子、無道、爲革嚢盛血、仰而射之、命曰射天也。

及武王滅紂、肅愼來獻石・、・矢。管、蔡畔周、乃招誘夷狄、周公征之、遂定東夷1)。康王之時、肅愼復至。後徐夷僭號、乃率九夷以伐宗周、西至河上。穆王畏其方熾、乃分東方諸侯、命徐偃王主之2)。偃王處・池東、地方五百里3)、行仁義、陸地而朝者三十有六國。穆王後得驥・之乘4)、乃使造父御以告楚、令伐徐、一日而至5)。於是楚文王大舉兵而滅之。偃王仁而無權、不忍鬪其人、故致於敗。乃北走彭城武原縣東山下、百姓隨之者以萬數。因名其山爲徐山6)。
1)尚書武王崩、三監及淮夷畔、周公征之、作大誥。又曰、成王既伐管叔、蔡叔、滅淮 夷。 2)博物志曰、徐君宮人娠而生卵。以爲不祥、棄於水濱。孤獨母有犬名鵠倉、得所棄卵 、銜以歸母。母覆煖之、遂成小兒。生而偃、故以爲名。宮人聞之、乃更録取。長襲 爲徐君。尸子曰、偃王有筋而無骨。故曰偃也。 3)水經注曰、黄水一名汪水、與泡水合、至沛入泗。自山陽以東、海陵以北、其地當之 也。 4)史記曰、造父以善御幸於周穆王、得赤驥、盜驪、・・、・耳之駟、西巡狩、樂而忘 歸。 5)造父、解見蔡・傳。 6)武原、縣。故城在今泗州下・縣北。徐山在其東。博物志曰、徐王妖異不常。武原縣 東十里、見有徐山石室祠處。偃王溝通陳蔡之間、得朱弓朱矢、以己得天瑞、自稱偃 王。穆王聞之、遣使乘駟、一日至楚、伐之。偃王仁、不忍鬪、爲楚所敗、北走此山 也。

・王無道、淮夷入寇、王命・仲征之、不克。宣王復命召公伐而平之1)。及幽王淫亂、四夷交侵、至齊桓修霸、攘而郤焉。及楚靈會申、亦來豫盟2)。後越遷琅邪、與共征戰、遂陵暴諸夏、侵滅小邦。
1)毛詩序曰、江漢、尹吉甫美宣王也。能興衰撥亂、命召公平淮夷。其詩曰、江漢浮浮 、武夫滔滔。匪安匪游、淮夷來求。王命召虎、式辟四方、徹我土疆。 2)左傳楚靈王、蔡侯、陳侯、鄭伯、許男、淮夷會・于申・。

秦并六國、其淮、泗夷皆散爲民戸。陳渉起兵、天下崩潰、燕人衞滿避地朝鮮1)【前書曰、朝鮮王滿、燕人。自始全燕時、嘗略屬眞番、朝鮮、爲置吏築障。漢興屬燕、燕王盧・反入匈奴、滿亡命東走、渡・水、居秦故空地。稍役屬朝鮮蠻夷及故燕、齊亡在者、王之、都王險也。】、因王其國。百有餘歳、武帝滅之。於是東夷始通上京。王莽簒位、貊人寇邊2)【前書莽發高句麗兵、當伐胡不欲行。郡縣彊迫之、皆亡出塞、因犯法爲寇。州郡歸咎於高句麗侯・、嚴尤奏言貉人犯法、不從・起、宜慰安之。】。建武之初、復來朝貢。時遼東太守祭・威・北方、聲行海表、於是・、貊、倭、韓萬里朝獻、故章、和已後、使聘流通。逮永初多難、始入寇鈔。桓、靈失政、漸滋曼焉。
1)前書曰、朝鮮王滿、燕人。自始全燕時、嘗略屬眞番、朝鮮、爲置吏築障。漢興屬燕 、燕王盧・反入匈奴、滿亡命東走、渡・水、居秦故空地。稍役屬朝鮮、蠻夷及故燕 、齊亡在者、王之、都王險也。 2)前書莽發高句麗兵、當伐胡不欲行。郡縣彊迫之、皆亡出塞、因犯法爲寇。州郡歸咎 於高句麗侯・、嚴尤奏言・貉人犯法、不從・起、宜慰安之。

自中興之後、四夷來賓、雖時有乖畔、而使驛不絶。故國俗風土、可得略記。東夷率皆土著、憙飮酒歌舞、或冠弁衣錦、器用俎豆。所謂中國失禮、求之四夷者也1)【左傳曰、仲尼學鳥名官於・子、既而告人曰、吾聞之、天子失官、學在四夷、其信也。】。凡蠻、夷、戎、狄總名四夷者、猶公、侯、伯、子、男皆號諸侯云。
1)左傳曰、仲尼學鳥名官於・子。既而告人曰、吾聞之、天子失官、學在四夷、其信也 。

夫餘傳 夫餘國、在玄菟北千里。南與高句驪、東與・婁、西與鮮卑接、北有弱水。地方二千里。本・地也。初、北夷索離國王出行【索或作・、音度洛反】。其侍兒於後姙身【姙音人鴆反】。王還欲殺之。侍兒曰、前見天上有氣、大如・子、來降我、因以有身。王囚之。後遂生男。王令置於豕牢【牢、圏也】、豕以口氣嘘之、不死。復徙於馬蘭【蘭即欄也】、馬亦如之。王以爲神、乃聽母收養。名曰東明。東明長而善射。王忌其猛、復欲殺之。東明奔走、南至掩・水【今高麗中有蓋斯水。疑此水是也】。以弓撃水。魚鼈皆聚浮水上。東明乘之得度。因至夫餘而王之焉。於東夷之域、最爲平敞、土宜五穀。出名馬、赤玉、貂・【・似豹、無前足。音奴八反】、大珠如酸棗。以員柵爲城、有宮室、倉庫、牢獄。其人・大彊勇而謹厚、不爲寇鈔。以弓矢刀矛爲兵。以六畜名官、有馬加、牛加、狗加、其邑落皆主屬諸加。食飮用俎豆、會同拜爵洗爵、揖讓升降。以臘月祭天、大會連日、飮食歌舞、名曰迎鼓。是時斷刑獄、解囚徒。有軍事亦祭天、殺牛、以・占其吉凶【魏志曰、牛・解者爲凶、合者爲吉】。行人無晝夜、好歌吟、音聲不絶。其俗用刑嚴急、被誅者皆沒其家人爲奴婢。盜一責十二。男女淫皆殺之、尤治惡・婦、既殺、復尸於山上。兄死妻嫂。死則有椁無棺。殺人殉葬、多者以百數。其王葬用玉匣、漢朝常豫以玉匣付玄菟郡、王死則迎取以葬焉。建武中、東夷諸國皆來獻見。二十五年、夫餘王遣使奉貢。光武厚荅報之。於是使命歳通。至安帝永初五年、夫餘王始將歩騎七八千人寇鈔樂浪、殺傷吏民。後復歸附。永寧元年、乃遣嗣子尉仇台詣闕貢獻。天子賜尉仇台印綬金綵。順帝永和元年、其王來朝京師。帝作黄門鼓吹、角抵戲以遣之。桓帝延熹四年、遣使朝賀貢獻。永康元年、王夫台將二萬餘人寇玄菟。玄菟太守公孫域撃破之、斬首千餘級。至靈帝熹平三年、復奉章貢獻。夫餘本屬玄菟、獻帝時、其王求屬遼東云。

邑婁傳 ・婁、古肅愼之國也。在夫餘東北千餘里。東濱大海、南與北沃沮接、不知其北所極。土地多山險。人形似夫餘、而言語各異。有五穀、麻布、出赤玉、好貂。無君長、其邑落各有大人。處於山林之間、土氣極寒、常爲穴居、以深爲貴、大家至接九梯。好養豕、食其肉、衣其皮。冬以豕膏塗身、厚數分、以禦風寒。夏則裸袒、以尺布蔽其前後。其人臭穢不・、作廁於中、圜之而居。自漢興已後、臣屬夫餘。種衆雖少、而多勇力。處山險、又善射、發能入人目。弓長四尺、力如弩。矢用・、長一尺八寸、青石爲鏃、鏃皆施毒、中人即死。便乘船、好寇盜、鄰國畏患、而卒不能服。東夷夫餘飮食類、皆用俎豆、唯・婁獨無、法俗最無綱紀者也。

高句驪傳 高句驪、在遼東之東千里。南與朝鮮、〓貊、東與沃沮、北與夫餘接。地方二千里、多大山深谷、人隨而爲居。少田業、力作不足以自資。故其俗節於飮食、而好修宮室。東夷相傳以爲夫餘別種。故言語法則多同。而跪拜曳一脚、行歩皆走。凡有五族。有消奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部【案今高驪五部、一曰内部、一名黄部、即桂婁部也。二曰北部、一名後部、即絶奴部也。三曰東部、一名左部、即順奴部也。四曰南部、一名前部即灌奴部也。五曰西部、一名右部、即消奴部也】。本消奴部爲王、稍微弱、後桂婁部代之。其置官、有相加、對盧、沛者、古鄒大加【古鄒大加、高驪掌賓客之官、如鴻臚也】、主簿、優台、使者、帛衣先人。武帝滅朝鮮、以高句驪爲縣【前書元封中、定朝鮮爲眞番、臨屯、樂浪、玄菟四郡】、使屬玄菟、賜鼓吹伎人。其俗淫、皆〓淨自憙、暮夜輒男女羣聚爲倡樂。好祠鬼神、社稷、零星【前書音義、龍星左角曰天田、則農祥也。辰日祠以牛、號曰零星。風俗通曰、辰之神爲靈星。故以辰日祠於東南也】、以十月祭天大會。名曰東盟。其國東有大穴。號〓神、亦以十月迎而祭之。其公會衣服皆錦繍、金銀以自飾。大加、主簿皆著〓。如冠〓而無後。其小加著折風。形如弁。無牢獄、有罪、諸加評議便殺之、沒入妻子爲奴婢。其昏姻皆就婦家、生子長大、然後將還、便稍營送終之具。金銀財幣盡於厚葬、積石爲封。亦種松柏。其人性凶急、有氣力。習戰鬪、好寇鈔。沃沮、東〓皆屬焉。句驪一名貊。有別種、依小水爲居。因名曰小水貊。出好弓。所謂貊弓是也【魏氏春秋曰、遼東郡西安平縣北、有小水南流入海。句驪別種因名之小水貊】。王莽初、發句驪兵以伐匈奴。其人不欲行、彊迫遣之。皆亡出塞爲寇盜。遼西大尹田譚追撃、戰死。莽令其將嚴尤撃之。誘句驪侯〓入塞、斬之。傳首長安。莽大説、更名高句驪王爲下句驪侯。於是貊人寇邊愈甚。建武八年、高句驪遣使朝貢。光武復其王號。二十三年冬、句驪蠶支落大加戴升等萬餘口詣樂浪内屬。二十五年春、句驪寇右北平、漁陽、上谷、太原。而遼東太守祭〓以恩信招之。皆復款塞。後句驪王宮生而開目能視。國人懷之。及長勇壯、數犯邊境。和帝元興元年春、復入遼東、寇略六縣。太守耿〓撃破之、斬其渠帥。安帝永初五年、宮遣使貢獻、求屬玄菟。元初五年、復與〓貊寇玄菟、攻華麗城【華麗、縣、屬樂浪郡】。建光元年春、幽州刺史馮煥、玄菟太守姚光、遼東太守蔡諷等將兵出塞撃之、捕斬〓貊渠帥、獲兵馬財物。宮乃遣嗣子遂成將二千餘人逆光等、遣使詐降。光等信之。遂成因據險〓以遮大軍、而潛遣三千人攻玄菟、遼東、焚城郭、殺傷二千餘人。於是發廣陽、漁陽、右北平、〓郡屬國三千餘騎同救之。而貊人已去。夏、復與遼東鮮卑八千餘人攻遼隊【縣名、屬遼東郡也】、殺略吏人。蔡諷等追撃於新昌、戰歿。功曹耿耗、兵曹掾龍端、兵馬掾公孫〓以身扞諷、倶沒於陳、死者百餘人。秋、宮遂率馬韓、〓貊數千騎圍玄菟。夫餘王遣子尉仇台將二萬餘人、與州郡并力討破之。斬首五百餘級。是歳、宮死、子遂成立。姚光上言欲因其喪發兵撃之。議者皆喪爲可許。尚書陳忠曰、宮前桀黠、光不能討、死而撃之。非義也。宜遣弔問、因責讓前罪、赦不加誅、取其後善。安帝從之。明年、遂成還漢生口、詣玄菟降。詔曰、遂成等桀逆無状、當斬斷〓醢、以示百姓、幸會赦令、乞罪請降。鮮卑、〓貊連年寇鈔、驅略小民、動以千數、而裁送數十百人、非向化之心也。自今已後、不與縣官戰鬪而自以親附送生口者、皆與贖直、〓人四十匹、小口半之。遂成死、子伯固立。其後〓貊率服、東垂少事。順帝陽嘉元年、置玄菟郡屯田六部。質、桓之間、復犯遼東西安平、殺帶方令【郡國志西安平、帶方、縣、並屬遼東郡】、掠得樂浪太守妻子。建寧二年、玄菟太守耿臨討之。斬首數百級。伯固降服、乞屬玄菟云。

東沃沮傳 東沃沮在高句驪蓋馬大山之東【蓋馬、縣名、屬玄菟郡。其山在今平壤城西。平壤即王險城也】。東濱大海、北與〓婁、夫餘、南與〓貊接。其地東西夾、南北長【夾音狹】、可折方千里。土肥美、背山向海。宜五穀、善田種。有邑落長帥。人性質直彊勇、便持矛歩戰。言語、食飮、居處、衣服有似句驪。其葬、作大木椁、長十餘丈、開一頭爲戸、新死者先假埋之、令皮肉盡、乃取骨置椁中。家人皆共一椁、刻木如生、隨死者爲數焉。武帝滅朝鮮、以沃沮地爲玄菟郡。後爲夷貊所侵、徙郡於高句驪西北、更以沃沮爲縣、屬楽浪東部都尉。至光武罷都尉官、後皆以封其渠帥、爲沃沮侯。其土迫小、介於大國之間、遂臣屬句驪。句驪復置其中大人爲使者、以相監領、責其租税、貂布魚鹽、海中食物、發美女爲婢妾焉。又有北沃沮、一名置溝婁。去南沃沮八百餘里。其俗皆與南同。界南接〓婁。〓婁人憙乘船寇抄、北沃沮畏之、毎夏輒臧於巖穴、至冬船不通、乃下居邑落。其耆老言、嘗於海中得一布衣、其形如中人衣、而兩袖長三丈。又於岸際見一人乘破船、頂中復有面、與語不通、不食而死。又説海中有女國、無男人。或傳其國有神井、〓之輒生子云【魏志曰、毋丘儉遣王〓追句驪王宮、窮沃沮東界、問其耆老所傳云】。

わい傳 〓北與高句驪、沃沮、南與辰韓接、東窮大海、西至樂浪。〓及沃沮、句驪、本皆朝鮮之地也。昔武王封箕子於朝鮮。箕子教以禮義田蠶、又制八條之教【前書曰、箕子教以八條者、相殺者以當時償殺、相傷者以穀償、相盜者男沒入爲其家奴、女子爲婢。欲自贖者人五十萬。音義曰、八條不具見也】。其人終不相盜、無門戸之閉。婦人貞信。飮食以〓豆。其後四十餘世、至朝鮮侯準、自稱王。漢初大亂、燕、齊、趙人往避地者數萬口。而燕人衞滿撃破準而自王朝鮮、傳國至孫右渠。元朔元年【武帝年也】、〓君南閭等畔右渠、率二十八萬口詣遼東内屬。武帝以其地爲蒼海郡、數年乃罷。至元封三年、滅朝鮮、分置樂浪、臨屯、玄菟、眞番四郡【番音潘】。至昭帝始元五年、罷臨屯、眞番、以并樂浪、玄菟。玄菟復分領東七縣、置樂浪東部都尉。自内屬已後、風俗稍薄、法禁亦浸多、至有六十餘條。建武六年、省都尉官、遂棄領東地、悉封其渠帥爲縣侯。皆歳時朝貢。無大君長、其官有侯、邑君、三老。耆舊自謂與句驪同種。言語法俗大抵相類。其人性愚愨、少嗜欲、不請〓。男女皆曲領。其俗重山川。山川各有部界、不得妄相干渉。同姓不昏。多所忌諱。疾病死亡、輒捐棄舊宅、更造新居。知種麻、養蠶、作緜布。曉候星宿、豫知年歳豐約。常用十月祭天、晝夜飮酒歌舞。名之爲舞天。又祠虎以爲神。邑落有相侵犯者、輒相罰、責生口牛馬。名之爲責禍。殺人者償死。少寇盜。能歩戰、作矛長三丈、或數人共持之。樂浪檀弓出其地。又多文豹、有果下馬【高三尺、乘之可果樹下行】。海出班魚、使來皆獻之。

韓伝 韓有三種。一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁辰。馬韓在西、有五十四國。其北與樂浪、南與倭接。辰韓在東、十有二國。其北與〓貊接。弁辰在辰韓之南、亦十有二國。其南亦與倭接。凡七十八國、伯濟是其一國焉。大者萬餘戸、小者數千家、各在山海間。地合方四千餘里、東西以海爲限。皆古之辰國也。馬韓最大、共立其種爲辰王、都目支國。盡王三韓之地。其諸國王先皆是馬韓種人焉。馬韓人知田蠶、作緜布。出大栗如梨。有長尾〓、尾長五尺。邑落雜居、亦無城郭。作土室。形如冢、開戸在上。不知跪拜。無長幼男女之別。不貴金寶錦〓、不知騎乘牛馬。唯重瓔珠、以綴衣爲飾、及縣頸垂耳。大率皆魁頭露〓【魁頭猶科頭也。謂以髮〓繞成科結也。〓音計】、布袍草履。其人壯勇、少年有築室作力者、輒以繩貫脊皮、縋以大木、〓呼爲健。常以五月田竟祭鬼神。晝夜酒會、羣聚歌舞。舞輒數十人相隨〓地爲節。十月農畢、亦復如之。諸國邑各以一人主祭天神。號爲天君。又立蘇塗【魏志曰、諸國各有別邑、爲蘇塗。諸亡逃至其中、皆不還之。蘇塗之義、有似浮屠】、建大木以縣鈴鼓、事鬼神。其南界近倭、亦有文身者。辰韓耆老自言、秦之亡人。避苦役、適韓國、馬韓割東界地與之。其名國爲邦、弓爲弧、賊爲寇、行酒爲行觴、相呼爲徒。有似秦語。故或名之爲秦韓。有城柵屋室。諸小別邑、各有渠帥。大者名臣智、次有儉側、次有樊〓、次有殺奚、次有邑借【皆其官名】。土地肥美、宜五穀。知蠶桑、作〓布。乘駕牛馬。嫁娶以禮。行者讓路。國出鐵。〓、倭、馬韓並從市之。凡諸貿易、皆以鐵爲貨。俗憙歌舞飮酒鼓瑟。兒生欲令其頭扁、皆押之以石【扁音補典反】。弁辰與辰韓雜居。城郭衣服皆同、言語風俗有異。其人形皆長大、美髮、衣服潔清。而刑法嚴峻。其國近倭、故頗有文身者。初、朝鮮王準爲衞滿所破。乃將其餘衆數千人走入海、攻馬韓破之、自立爲韓王。準後滅絶、馬韓人復自立爲辰王。建武二十年、韓人廉斯人蘇馬〓等詣樂浪貢獻【廉斯、邑名也。〓音是】。光武封蘇馬〓爲漢廉斯邑君。使屬樂浪郡、四時朝謁。靈帝末、韓、〓並盛、郡縣不能制。百姓苦亂、多流亡入韓者。馬韓之西、海嶋上有州胡國。其人短小、〓頭、衣韋衣、有上無下。好養牛豕。乘船往來貨市韓中。

倭傳 倭在韓東南大海中。依山嶋居。凡百餘國。自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、國皆稱王、世世傳統。其大倭王居邪馬臺國【案、今名邪摩堆、音之訛也】。樂浪郡徼、去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘里。其地大較在會稽、東冶之東、與朱崖、〓耳相近。故其法俗多同。土宜禾稻、麻紵、蠶桑、知織績爲〓布。出白珠、青玉。其山有丹土。氣温、冬夏生菜茹。無牛馬虎豹羊鵲【鵲或作〓】。其兵有矛、楯、木弓、竹矢或以骨爲鏃。男子皆黥面文身、以其文左右大小、別尊卑之差。其男衣皆横幅結束相連。女人被髮屈〓、衣如單被、貫頭而著之。並以丹朱〓身【説文曰、〓、塵也。音蒲頓反】、如中國之用粉也。有城柵。屋室父母兄弟異處、唯會同男女無別。飮食以手、而用〓豆。俗皆徒跣、以蹲踞爲恭敬。人性嗜酒。多壽考、至百餘歳者甚衆。國多女子、大人皆有四五妻。其餘或兩或三。女人不淫不〓。又俗不盜竊、少爭訟。犯法者沒其妻子、重者滅其門族。其死停喪十餘日、家人哭泣、不進酒食、而等類就歌舞爲樂。灼骨以卜、用決吉凶。行來度海、令一人不櫛沐、不食肉、不近婦人、名曰持衰。若在塗吉利、則雇以財物、如病疾遭害、以爲持衰不謹、便共殺之。建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。桓靈間、倭國大亂、更相攻伐、歴年無〓主。有一女子、名曰卑彌呼。年長不嫁。事鬼神道、能以妖惑衆。於是共立爲王。侍婢千人、少有見者、唯有男子一人、給飮食、傳辭語。居處宮室樓觀城柵、皆持兵守衞。法俗嚴峻。自女王國東、度海千餘里、至拘奴國。雖皆倭種、而不屬女王。自女王國南四千餘里、至朱儒國。人長三四尺。自朱儒東南行船一年、至裸國、黒齒國。使驛所傳、極於此矣。會稽海外有東〓人【〓音達奚反】。分爲二十餘國。又有夷洲及〓洲。傳言秦始皇帝遣方士徐福、將童男女數千人入海【事見史記】、求蓬莱神仙不得。徐福畏誅不敢還、遂止此洲。世世相承、有數萬家。人民時至會稽市。會稽東冶縣人、有入海行遭風、流移至此洲者。所在絶遠、不可往來【沈瑩臨海水土志曰、夷洲在臨海東南。去郡二千里。土地無霜雪、草木不死。四面是山谿。人皆〓髮穿耳、女人不穿耳。土地饒沃、既生五穀。又多魚肉。有犬。尾短如麕尾状。此夷舅姑子婦臥息共一大牀、略不相避。地有銅鐵、唯用鹿格爲矛以戰闘、摩礪青石以作矢鏃。取生魚肉雜貯大瓦器中。以鹽鹵之、歴月所日、乃啖食之。以爲上肴也】。

論 論曰、昔箕子違衰殷之運、避地朝鮮。始其國俗未有聞也。及施八條之約、使人知禁、遂乃邑無淫盜、門不夜〓【〓、關也】、回頑薄之俗、就寛略之法。行數百千年。故東夷通以柔謹爲風、異乎三方者也。苟政之所暢、則道義存焉。仲尼懷憤、以爲九夷可居。或疑其陋。子曰、君子居之、何陋之有。亦徒有以焉爾。其後遂通接商賈、漸交上國。而燕人衞滿擾雜其風【擾、亂也】。於是從而澆異焉。老子曰、法令滋章、盜賊多有。若箕子之省簡文條而用信義、其得聖賢作法之原矣。

贊贊曰、宅是嵎夷、曰乃暘谷。巣山潛海、厥區九族。〓末紛亂、燕人違難【謂衞滿也】。雜華澆本、遂通有漢【衞滿入朝鮮、既雜華夏之風。又澆薄其本化、以至通於漢也】。眇眇偏譯、或從或畔【偏、遠也】。

『漢書』巻二十八下 地理志 第八下

遼東郡。秦置。屬幽州。戸五萬五千九百七十二、口二十七萬二千五百三十九。縣十八。
襄平。有牧師官。莽曰昌平。新昌。無慮。西部都尉治。【應劭曰、慮音閭。師古曰、即所謂醫巫閭。】
 望平。大遼水出塞外、南至安市入海。行千二百五十里。莽曰長説。【師古曰、説讀曰悦。】房。
 候城。中部都尉治。
 遼隊。莽曰順睦【師古曰、隊音遂。】
 遼陽。大遼水西南至遼陽入遼。莽曰遼陰。
 險涜。【應劭曰、朝鮮王滿都也。依水險。故曰險涜。臣・曰、王險城在樂浪郡・水之東。此自是險涜。師古曰、・説是也。・音普大反。】
 居就。室僞山、室僞水所出。北至襄平入梁也。
 高顯。
 安市。
 武次。東部都尉治。莽曰桓次。
 平郭。有鐵官、鹽官。
 西安平。莽曰北安平。
 文。莽曰文亭。
 番汗。沛水出塞外、西南入海。【應劭曰、汗水出塞外、西南入海。番音盤。師古曰、沛音普蓋反。汗音寒。】
 沓氏。【應劭曰、氏水也。音長答反。師古曰、凡言氏者、皆謂因之而立名。】

玄菟郡。武帝元封四年開。高句驪。莽曰下句驪。屬幽州。【應劭曰、故眞番、朝鮮胡國。】戸四萬五千六。口二十二萬千八百四十五。縣三。
 高句驪。遼山、遼水所出。西南至遼隊入大遼水。又有南蘇水。西北經塞外。【應劭曰、故句驪胡。】
 上殷台。莽曰下殷。【如淳曰、台音・。師古曰、音胎。】西蓋馬。馬・水西北入鹽難水。西南至西安平入海。過郡二、行二千一百里。莽曰玄菟亭。

樂浪郡。武帝元封三年開。莽曰樂鮮。屬幽州。【應劭曰、故朝鮮國也。師古曰、樂音洛。浪音狼。】戸六萬二千八百一十二。口四十萬六千七百四十八。有雲・。縣二十五。
 朝鮮【應劭曰、武王封箕子於朝鮮。】
 ・邯。【孟康曰、・音男。師古曰、・音乃甘反。邯音酣。】
 ・水。水西至増地入海。莽曰樂鮮亭。【師古曰、・音普大反。】
 含資。帶水西至帶方入海。
 黏蝉。【服虔曰、蝉音提。】
 遂成。
 増地。莽曰増土。
 帶方。
 駟望。
 海冥。莽曰海桓。
 列口。
 長岑。
 屯有。
 昭明。南部都尉治。
 鏤方。
 提奚。
 渾彌。【師古曰、渾音下毘反。】
 呑列。分黎山。列水所出。西至黏蝉入海。行八百二十里。
 東・。【應劭曰、音移。】
 不而。東部都尉治。
 蠶台。【師古曰、台音胎。】
 華麗。
 邪頭昧。【孟康曰、昧音妹。】
 前莫。
 夫租。
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燕地。尾、箕分・也。武王定殷、封召公於燕。其後三十六世與六國倶稱王。東有漁陽、右北平、遼西、遼東。西有上谷、代郡、雁門。南得・郡之易、容城、范陽、北新城、故安、・縣、良郷、新昌、及勃海之安次。皆燕分也。樂浪、玄菟、亦宜屬焉。燕稱王十世、秦欲滅六國。燕王太子丹遣勇士荊軻、西刺秦王。不成而誅。秦遂舉兵滅燕。
薊、南通齊、趙、勃、碣之間一都會也。【師古曰、薊縣、燕之所都也。勃、勃海也。碣、碣石也。】初太子丹、賓養勇士、不愛後宮美女、民化以爲俗、至今猶然。賓客相過、以婦侍宿。嫁取之夕、男女無別、反以爲榮。後稍頗止、然終未改。其俗愚悍少慮、輕薄無威。亦有所長、敢於急人。【如淳曰、赴人之急、果於赴難也。】燕丹遺風也。
上谷至遼東、地廣民希、數被胡寇。俗與趙、代相類、有魚鹽棗栗之饒。北隙烏丸、夫餘。【如淳曰、有怨隙也。或曰、隙、際也。師古曰、訓際是也。烏丸、本東胡也。爲冐頓所滅、餘類保烏丸山。因以爲號。夫餘在長城之北、去玄菟千里。夫讀曰扶。】東賈眞番之利。
玄菟、樂浪、武帝時置。皆朝鮮、・貉、句驪蠻夷。【師古曰、・音穢。字或作・。其音同。】殷道衰、箕子去之朝鮮。【師古曰、史記云、武王伐紂、封箕子於朝鮮。與此不同。】教其民以禮義、田蠶、織作。樂浪朝鮮民犯禁八條、【師古曰、八條不具見。】相殺以當時償殺。相傷以穀償。相盜者男沒入爲其家奴、女子爲婢、欲自贖者、人五十萬。雖免爲民、俗猶羞之。嫁取無所讎。【師古曰、讎、匹也。一曰、讎讀曰售。】是以其民終不相盜。無門戸之閉、婦人貞信不淫辟。【師古曰、辟讀曰僻。】其田民飮食以・豆。【師古曰、以竹曰・、以木曰豆。若今之檠也。檠音其敬反。】都邑頗放効吏及内郡賈人。往往以杯器食。【都邑之人頗用杯器者、効吏及賈人也。放音甫往反。】郡初取吏於遼東、吏見民無閉臧、及賈人往者、夜則爲盜、俗稍益薄。今於犯禁多、至六十餘條。可貴哉、仁賢之化也。然東夷天性柔順、異於三方之外。【師古曰、三方、謂南、西、北也。】故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。【師古曰、論語稱孔子曰、道不行、乘桴浮於海、從我者其由也歟。言欲乘桴筏而適東夷。以其國有仁賢之化、可以行道也。桴音孚。筏音伐。】樂浪海中有倭人。分爲百餘國。以歳時來獻見云。【如淳曰、如墨委面。在帶方東南萬里。臣・曰、倭是國名、不謂用墨。故謂之委也。師古曰、如淳云如墨委面。蓋音委字耳。此音非也。倭音一戈反。今猶有倭國。魏略云、倭在帶方東南大海中。依山島爲國。度海千里、復有國。皆倭種。】
自危四度至斗六度。謂之析木之次。燕之分也。