おさむの書

おさむの書

いち医学生から研修医、そして一人前の医師となり地域について考えていくブログ

いよいよ明日、次なるステップのために県北の医療を離れることとなりました。

 

地域枠医師として、大分県の皆さんのおかげで医者にならせていただき、その恩返しをする義務年。

 

 

一番最初のきっかけは、まだ東京にいた頃。学士編入試験に地域枠という選抜があることを知った。

 

これは、学費と毎月いくらかの奨学金を出して将来地域に残って働いてもらうという約束をする枠。

 

 

 

こういう決まりごとには、議会で予算を組む必要がある。

 

 

自分は、地域枠という選抜方法から、県議会の議事録を検索した。当時、議員インターンシップで社会の多くのことは政治で決まっているということを目の当たりにしていたので、東京だけでなく大分もそうだろうと思って検索してみたら見事HIT!!!

 

 

まだ当時はネットでの選挙活動も解禁されておらず、一部の先見の明がある議員くらいしかSNSで情報発信をしていなかったが、議会の情報からメールアドレスが記載していたのでそこでアポ取りをして大分県の地域医療(医師確保政策)の現状を取材させていただいた。

 

 

当時の、大分での学生の社会活動具合からするといきなりこういうアポ取りをしてくる学生ってどんなやつだろうと警戒されたかもしれない(東大ブランドが効いたのかも?)。そこから、市民の声を近い場所で聞いて政治に届ける市議会議員の方を紹介していただいた。それが、中津市だった。

当時の中津市は、企業誘致により人口は増え、経済的にも盛り上がっている地域だった。

 

だが、その盛り上がりは一時的だった。

 

 

 

地域に安心して住んで、子どもを産み育てることができなければその活気は一過性のものとなる。

 

 

 

地域活性化は医療で完結する

 

 

地域医療として、産婦人科を志すようになり、そこでの取材を元に編入試験の小論文や面接を乗り越えた。

 

 

ちょうど、自分が編入学した平成20年10月、常勤の産婦人科医を確保でき、さらに平成22年7月には分娩取り扱いの開始、同年12月には大分県内3箇所(当時)の地域周産期母子医療センターの指定を受けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

その後、いろいろあって自分は麻酔科医となった。

 

 

2年間の研修を経て、標榜医を取得し最初の地域勤務となった。

 

産婦人科医にならなかった自分は、大きな貸しがある。(多分一生かかっても返しきれない)

 

そんな自分が、地域周産期母子医療センターに指定されている地域中核病院で麻酔科医として勤務できるのはとても喜ばしいことであった。

 

 

普通、麻酔科医は患者のために麻酔をするが、自分はその中に”執刀医のため”に麻酔をしている気持ちが強い。

 

特に、疾患によっては術後管理のことも少しは分かるので、それを意識した術中麻酔管理を心がけている。

 

 

 

産婦人科だけでない。心臓血管外科も手術をしているし、超重症の緊急外科手術症例も非常に多い。

 

 

難しい症例はすべて、(2年間研修した)大学のような中央施設に送ってしまえば簡単だ。

 

だが、そうすることでより重症でそこでしかできない治療を必要としている患者がその治療を受けられなくなるかもしれない。

 

 

 

地域の前線で中核地点として、踏ん張れるところは踏ん張り、中央が疲弊しないようにここから支える。

 

 

 

 

 

地域で働いてみて、意外だったこともあった。

 

それは、思った以上に麻酔科医が頼りにされるということ。

 

 

これは、2年間の研修では全く気づかなかった。

 

もちろん、大学にはもっと上がいて、周りにたくさん人もいて、コマ感が強く、ルーチンをこなすだけで精一杯だった。

 

 

 

 

だが、そこで当たり前にしているような重症患者の全身管理を、地域の病院に出ると相談されることが非常に多かった。

 

 

院内救急コールにも強かった。いくら周りに大ベテランの先生や多くの医療スタッフがその場に居ようが、緊急気管挿管の場合は真っ先に頼られる。当時、わずか5年目程度の麻酔科医の自分がその立場になるとは思わなかった。

 

 

 

 

一方で、疑問も出てきた。

 

 

 

『これでいいのだろうか?』

 

 

 

 

重症患者の全身管理とか、自分だったらこうするとかの管理指針を相談されて議論をさせて頂く機会も多かったのだが、『本当に自分の医療ってあってるの?』かがふと不安になった。

 

 

まだ学び足りないことがある。

 

 

 

 

そういう目標ができた段階で、わずか1年の地域勤務の後再び大学に戻されたという自分のキャリアパスはかなり理想に近いキャリアの歩み方だと感じた。

 

一度外に出た医師は、大学に戻ったらかなり任されることになる。

確かに、それだけのことをやってきた。

 

その上で、自分の忘れ物を見つける一年間だった。

 

 

そして再び、2年間の地域勤務。

 

 

大学では埋もれてしまう個も、地域に出ると一人一人に光があたる。

 

もちろん、その光は同時に責任も背負うことになる。

 

 

 

 

 

一度は産婦人科を目指した自分が、麻酔科医として大分県の地域周産期を支えることができるのはとてもやり甲斐を感じていた。

また、研修指定病院でもあり、地域枠の義務対象病院なので地域枠の後輩もたくさん勤務することになる。術後のことも含めて、やはり後輩にはいろいろ言いやすく相談も受けやすい。学生の頃から知っている後輩もいて、『先生のICUだったらこうしますかね?』と先に言ってきたりもする。こういう流れが続けば、地域の医療はもっともっともっともっとよくなる。

 

大分市・別府市以外では、唯一の地域周産期母子医療センターであり、大分の地域医療にとってこの病院の重要性はもっと評価されるべきだと思うし、そのつもりで勤務していた。

 

これくらいの規模の病院のほうが、お互いに顔が見え、スタッフ一丸となって地域の医療を支えることができる。

 

 

 

 

自分にとっては、編入試験の段階から注目していた地域の医療であり、そこで様々なことに挑戦させていただけたのには非常に感謝している。もちろん、まだまだやり足りないことも多いし、(コロナの影響もあり)できなかったこともたくさんたくさんある。それをやりきれていないのは心残りだが・・・。

 

 

 

 

さて、次の地域は豊肥地区。

 

一気に県南にくだるが、今度はこっちの地域のことはまさにBTGの地域活動のフィールドであったため地域のことに関してはたくさん触れてきた。

 

『地域活性化は医療で完結する』法則からすると、今度は医療の視点から、地域を見ていきたいと思います。

「大学(院)の講義で人生が変わった経験、ありますか?」

 

 

 

アントレプレナーシップ論講座という講座がある。

何度もブログで紹介しているものです。

 

 

 

 

 

自分が受講した2005年は、東京大学大学院工学系研究科の大学院講義だった。当時、東大の情報理工の大学院生のスペックの高さに度肝を抜かし、場違いな中東大に通う中で、自分の研究室が工学の研究をビジネスにつなげるというスタンスの研究室だったので、何かの足しになればと思って選択した。

 

いきなりしょっぱなから「バランスシート」や「5フォース分析」という言葉に、容赦なく出てくる課題。

 

周りを見ても、『やば・・・。これ、来る場所間違った』と正直思った。

 

 

たまたま、講義の後の帰りの電車で同じ班の人と一緒になった。思い切って話しかける。『今日の、分かりました?』「いえ、全然・・・。」『ですよね~~!!』「そうですよね、よかった~~」と謎の友情が芽生えた。

 

 

なんやかんや乗り越え、おまけ感満載でこの年度の最優秀班に選ばれた。

 

 

 

「起業家精神論とかいいながらも別に起業するわけでもないし」と思いながらも、講座の最後には「人はみな、”自分”という業を起業する」ことを理解し、自分をいかに高く売るか。そのために、差別化や成長戦略などをどう立てるかといったことが社会人に向けて重要になる。

 

この講座は、起業論ではない。起業家精神論、つまり、起業家の持つ精神論から学ぶ講座なのだ。

 

 

 

 

地元の医学部に編入し、大分になかった学生団体を立ち上げることになった。

 

設立のきっかけは、アントレプレナーシップを学び実践したいという学生に出会えたことであった。

 

 

大分で学生団体を立ち上げ、大学の枠を出て社会活動をする。大学の学問を社会の中で発揮する活動として、地域活性化や議員インターンシップなどの活動を行った。

 

設立のきっかけとなった経済学部のNは、大分に言うのももったいなく、さらなる成長のために休学して東京のアントレプレナーシップ論講座に送り込んだ。紆余曲折あったものの、彼はそこで開花した。学生当時はまさに全国の時の人となった。

 

 

今年はアントレ21周年、過去の卒業生は350人になるが、その中でもダントツのモノを持っていたという。

 

 

 

自分が『行け』といったことで本当にその人の人生を変えてしまったとなると本当に恐ろしいが、自分もこの講座(というか講義)で人生が変わったので、お互い様だ。

 

 

 

 

主宰の柴田先生はこの講座の内容を本にしていて、自分も本の中に登場するのでぜひ手に取ってみてください。

 

 

 

 

 

実は、学生団体BTG大分でもコラボ企画で課題をいただき、3期ほど講座を開講することができた。

特に第1回目のアントレプレナーシップ論講座in大分は唯一無二で、運営は苦労もしたが多くの受講生が集まり東京の講座に負けないくらいの成長をすることができた。

 

 

 

 

 

 

さて、前置きが長くなりましたが、このアントレプレナーシップ論講座2022年度の講座がもう間もなく走り出そうとしています。

 

2年前より講座がオンラインになり、全国にチャンスが広がることとなった。もちろん、オンラインならではの難しさもあるが、それだけに得られるものも大きい。

 

縁があって昨年は少し講座に片足の指数本を突っ込ませていただいたのですが、今年は九州がテーマになっております。

 

この講座に、九州に注目していただけたというのはチャンスであり、マジでこのチャンスを逃す手はないですよ。

 

 

 

 

とはいえ、ただでさえこういった外に出る活動が少ない中、このコロナ禍でさらに内向き志向の若者が増えた現代社会。

 

また、「意識高い系(笑)」と揶揄されるように、やってる人は我が強く、強調して何かをやることに向かない(自分でやりたがる。その割に打たれ弱いためすぐやめる。)

 

また、BTGでアントレをしていく中大きな障壁となったのは「アントレプレナーシップ」「起業」がNGWord判定されたこと。

 

説明会にいってみれば、某マルチの勧誘ざったり商材の話だったりといったことが大学キャンパス内でも多くあり、アントレのポスターを張ることが難しくなった。

 

 

 

 

そんなことがあっても、せめて知ってもらえるようにと広報はしていくのだが、じゃあ自分が受けた「アントレプレナーシップ論講座」って何なのかを端的に表現できるものがなかなかない。

 

 

ただ、他との差別化のポイントが2つほどあるなぁと思ったので、それを紹介して講座の広報に変えたいと思う。

 

 

 

 

 

 

一つは、この講座では成長を具体的に定義したということ。

 

 

これは、自分の中で衝撃だった。「成長」をテーマに上げる団体やサークル、講座・講義は多いが、じゃあ具体的に何なのか。資格系ならまだその定義は明確だが、『仲間ができます』だとか『斜め上へ』とか言われてもよく分からんわけです。

 

 

この講座でいっている定義とは、以下の3つ。

 

 

◎相手の困りごとを聞きに行く一歩

◎相手の話を正しく聞く素直さ

◎相手のために何かする感動・興奮

 

 

これが、この講座を受講することで得られる”成長”だ。

 

 

特に、地方では重要になってくる。

 

 

 

地域・田舎で起業家的なこと、ベンチャー的なことをやろうとすると自分たちの技術を売り込む、、、いや、押し売りすることが多い。

 

 

地域のニーズ調査もせずにいきなり商品を売ろうとするものだから、売れるわけない。

 

マーケティングの基本です(その時点で起業家失格)。

 

田舎で自分の商品が売れないから、『田舎はダメだ。東京行こう!』ってなる。

 

でも、違うんですよね。

 

 

地域の困ったを聞きに行く一歩 これが大事。

 

 

そして、相手の話を正しく聞くというこの”正しく”って言葉が重すぎるし、さらに”素直”に聞くってほんとできないんですよね。

 

 

 

そういう意味では、地域・田舎っていいフィールドになると思います。

 

 

 

第1回アントレプレナーシップ論講座in大分は、大分県竹田市のとうもろこしを扱った。ひたすらフィールドワークと地域住民との対話をさせた。

 

 

大学生にとって、地域はいい教室だ。

 

 

 

 

そういった人のメンタリティーはどこにあるかというと、こういうことをすることで味わえる感動・興奮があるからだ。

 

 

 

 

 

ここまで、成長という目標を具体化した講座はほかにないです。

 

 

 

 

以上が1つ目。

 

 

 

 

2つ目ですが、この講座が21年も続いていること自体がその証明。

 

 

この講座の運営スタッフはすべてボランティアでなりたっている。

 

 

ボランティアにもかかわらず、講師やT.A.は受講生のために多くの時間を割いている。

 

講座は3ヶ月、正直受講生は血反吐が出るほど苦しい3ヶ月を過ごすわけだが、同じくらいT.A.も時間をかけて受講生をサポートしてくれる。

 

 

 

昨年、アントレ開国道場という企画があって、そこに関わられていただいた。

 

 

そんな中、受講生のビジネスプランについて相談を受けることもあった。

 

 

 

プレゼンを聞くんだが、、、、、

 

 

 

 

 

甘いΣ( ̄ロ ̄lll)ガーン

 

 

 

マジでほんと、どこから手を付けていいのかわからないくらいなっていなかった。

 

まぁ、相手は大学生。

 

 

自分もそうだったなぁ~と思いながら、大分でのアントレの経験をもとにいろいろアドバイス。

 

 

 

 

そして、最終発表会だが、感動で泣いてしまいそうになった。

 

Zoomで、ビデオ・マイクを自由にOFFできるのがせめてもの救いだった。

 

 

たった3ヶ月でよくここまで成長したな

 

 

→そうだ、そういう講座だった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このことがまさに、この講座がどんな講座かを物語っていると思う。

 

 

 

 

21年間、ボランティアで運営され卒業生は350人!

 

自分のように受講から17年たっても講座に関わることができ、

 

「あの時こうだったね~」と笑うことができ、過去の自分を笑って振り返るくらい短期集中で成長し、

 

17年たった今でもこうして最終発表会で泣ける

 

 

 

コロナ禍で情報があふれ、「アントレプレナーシップ」と検索するだけでも多くの講座やスクール、大学の学部名にすらなっているくらい。

 

 

”どんな講座?”と聞かれて、卒業生はおそらく何となく心の中にこんな感じというのはあって、だからこそ当たり前にこうして再会できていたりするのだが、毎回会うたびにそれぞれの人がそれぞれの分野で大活躍されていて、ほんとうに刺激をもらっている。

 

 

この刺激をもらうというのもありふれた言葉で、その刺激を受けたことで自分の明日が変わるか!?まで落とし込まないとダメ。

 

 

 

この人たちと接していると、『あ、遠慮しなくていいんだ』『やろうっと』と本当に思えるし、実際速度が上がる。

 

 

 

そうやって刺激しあえる仲間に会えること。

 

 

 

以前は、東京に行く必要があった。大分からであれば休学して、ルームシェアするなどして東京に行く必要があったが、いまはオンラインでつながることができる。そういうことができる時代です。そのツールを使いこなせないと、自分という商品を社会に売り出すことなんて到底できない。

 

 

 

 

ちなみに、僕が受講した時は大学院講義でしたが、講義の単位は「C(可)」でした(苦笑)。

 

 

その程度の自分でも、こうやって17年たった今でも楽しく刺激的に関われる。卒業生がこんな感じで関わる講座は、他にありません。

 

 

 

 

さぁ、チャンスは平等。あとは、やるだけです!!

何人かの方にはお伝えし、なんとなく察してくださった方もいますが、2ヶ月ほど前に母方の祖母が亡くなりました。

 

延岡在住。

 

アメリカから帰国して小学校は延岡の小学校に通いました。実は出国前に延岡の幼稚園に通っていた時期もあるみたいなのですが記憶はおぼろげ。はっきり記憶にある日本の記憶としては延岡が実は最初だったりする

 

小学校卒業まで延岡に在住。父は単身赴任、母も仕事をしていたので学校が終わったあとは祖母の家に帰って母の仕事の終わりを待っていました。

 

といっても実はおじいっちゃん子だった自分。祖母はどちらかと言うと厳しい存在でした(祖父が甘々だったのもありますが)。

 

祖父は自分が大学生の頃に他界。

 

祖母は毎朝父の遺影にお供え物をし、夜は必ず、クレヨンしんちゃんのルームライトを点けていました。祖父が生前寝室で使用していたものです。

 

流石に高齢となり、母が介護で一緒に住むことになりました。

 

このご時世ですが、肺炎で入院し入院中に脳梗塞を発症したようでした。

 

 

経過は逐一LINEで母から報告を受けていた。

 

 

一番難しかったのはこのコロナ禍でのお見舞い、葬式事情

 

 

訪問のためには事前PCR必須

 

 

いやいや、こういう緊急時にPCRってどうなの?

 

 

通常PCR検査は検体を採取し、一度東京に検体を運んで検査をしてもらう(だからコロナ禍で航空機減便になったりして検査結果が届くのが遅くなったりもしました)。もちろん、病院によっては院内ですぐ検査できる体制もあったりしますが、もっと検査を受けるべき人がその枠を使うべきではないのだろうか?

 

 

とはいえ、場所が違うと医療事情も違ってくるため、外様がとやかくいうわけにも行かない。

 

ちなみに自分は、お見舞いも葬儀にも出席しませんでした。

 

その時期はいろいろ重なっていたのもあり、当日もどうしても外せない用事があったりもしたし、その分のPCR検査枠を他の人に使ってくださいという意味で。

 

 

 

さて、結果的に祖母とのさいごになったのは、なんと東京パラリンピックオンラインパブリックビューイングだった。

 

 

 

 

Team MAYA、麻耶の応援団の多くが参加してくれたが、祖母も参加し親戚の多くが久しぶり(4年どころか8年ぶりの再会も)に顔を合わせることとなった

 

 

自分だけじゃなく多くの親族が、このZoomがさいごになった。

 

 

 

 

 

なんかうまく言葉に出来ないけど、自分がやってることもなにかの役に立てたのかなと思った。

 

 

 

 

まだまだ、オミクロン株の感染拡大がどの程度になるか見通しがたたない状況にあり、経済を回しつつも医療機関は医療機関で慎重に万全の対応が求められる。ついつい感情的になってしまうが、そこは冷静になって、万が一の場合の受け入れ体制を整えておかないと、何も学んでいないことになる。

医療機関にとっては、コロナはまだまだ続くのだ。

 

もちろん、面会制限や禁止をしている医療機関も多い。そこに患者の不満が出てくるのも、実際自分自身が患者家族になって改めて感じた。でもそういう感情を抑えても、冷静に対処しないといけない。そんな患者の不満も、配信技術などの工夫により少しでも軽減できるのではないかと実際自分がその立場になって思った。

 

 

 

先日、荷物整理のために祖母の家に行った。

診療記録を見て、90代の割には非常に手厚い医療をしてくれたことがすごく伝わってきた。診療を担当してくださった医療スタッフに感謝です。

 

 

荷物整理をしていてたくさんの思い出や写真が出てきて、自分のものはいただいて帰った。

 

家は取り壊し、土地は売りに出すという。

ついつい思い出となると祖父との思い出のほうが強くなってしまう。

みかんの木や餅つき、鯉のぼりをたてたりといろいろしてきたなぁ〜〜。

 

 

 

祖父が早くに亡くなってしまったけど、今頃無事に再会できていろいろ話ししてるのかな〜〜

 

 

 

Zoomでのオンラインパブリックビューイングの思い出で撮影したスクショや声だけになったけどZoom録画もいい思い出の記録になった。

 

世の中いつ何が役に立つかわからないものである。

みなさん、雑音リスナーという言葉をご存知だろうか。

 

 

試しにググってみたところ

 

 

なんと2件目で今日自分がネタにしたい系統のものがHITするとは!!??

 

(しかも1件目もよくよく見ると林原めぐみのTokyo Boogie Nightとこれもまた妙なニアミス・・・)

 

 

 

 

きっかけは何だったかは忘れたが、高3の後半以降、結構な声優ファンで、上にもある通り國府田マリ子のファンだった。

 

アニメ「まもって守護月天!」のシャオで分かってほしいところだが、一般的で言うと忍たま乱太郎のユキ(ユキが誰って話もある?)や、ワンピースのカヤ(ウソップ編に出てくる病弱なあの子)、。。。

 

 

あ、もっとメジャーなのいたわ

 

ママレード・ボーイの主人公(?)小石川光希 の役です

 

 

あまりマニアックになってもしょうがないのでこの辺で・・・。

 

 

高校生の頃から、友人関係の助けもあって一気にファンになり、今は閉店したが某ミュージックETO2階のアニメフロアのおばちゃんとの仲良くなって販促ポスターもらったりとかしてたのですが、そのファンの日常としてラジオがあった。

 

 

1999年頃の大分は、アニメマインドというアニラジが放送されていた。

 

この頃の大分は、まだアニメイトもなかったが当時の晃星堂書店(今は竹町ファミリーマートの場所)の一角にアニメグッズコーナーがあったり、どちらかというとローカル版アニメイトのようなアニメ・声優CD・DVD・LDを扱うショップ(現岩尾文具店)などがあり、ひっそりとアニメ好きの文化がそこで根付いていた。もうお店の名前も忘れたが、その現岩尾文具店の場所にあったCDショップで、エヴァ初号機の限定プラモデル(パーフェクトグレード)を予約購入し、どでかい箱を恥ずかしがりながらJR久大線に乗って持ち帰ったのを今でも覚えている。

 

大分アニメ好きの必須ラジオでもあるアニメマインドの中で、「國府田マリ子のGM」という番組が放送されていた。

 

ところが、大分のラジオ局なのでキーのラジオ大阪での番組とは週遅れだったりもした。

 

さらに、まもって守護月天!のラジオ番組「シャオと太助の今夜も守護月天!」というラジオ番組がTBSラジオで放送開始となった。

 

※ちなみに199年12月12日放送開始であり、大学受験勉強真っ只中だがそんなの知ったこっちゃなかった

 

GMも、結局は遅れることなく聞きたいためラジオ大阪(1314kHz)TBSラジオ(954kHz)を大分から聞いていた。

 

 

実は、実家の屋根に上ると雑音混じりだが聞こえる場所が存在する。

 

 

 

この、地方にいながらこのようにわずかに入るキー局の電波を拾って番組を聞くこと雑音リスナーという。

 

 

大分だと、その雑音の多くは某北国の放送だったりするのだが、AMラジオのアンテナを指で抑えたりするなどしていろんな工夫をして雑音と寒さと戦いながらラジオを聞いていた。もちろん、番組はカセットテープに録音し、次週の番組まで鬼リピしながら勉強していた。

 

 

 

自分が上京したいと思った一番の理由は、雑音無しでラジオが聞きたいからだった。

 

(ちなみに、肝心の上京の夢がかなったときは聞いていた番組がほぼ終了していたので一回もラジオを聞くことはなかった)

 

 

 

 

話せば長くなる理由で東京の大学でなく大分で進学することになってからも、運良くベランダがラジオの入りが良かったので引き続き雑音リスナーをしながら毎週番組宛てにハガキを書き、東京で公開録音(通称:公録)があるときはお金をためて東京に出かけたりもした。とあるファンの集まりからは「大分の中西くん」ということでなんか大分といえばみたいな扱いになったりもして、思えば行動力や企画力はこのときに育まれたのかもしれない。

ファンイベントに参加したり、聖地巡りしたり、年越しカウントダウンで聖地である九十九里の海岸で年越しキャンプ(極寒!!)したりと、今思い返すと青春である。

 

 

 

 

 

 

時は2021年。もう20年近くときがたった。

 

ラジオという文化はまだ残ってはいるものの、YouTube同時Liveだったり、radicoというアプリで全国どこでもラジオ番組が雑音無しで聞ける時代になった。

 

 

 

実は、とある先輩がラジオ番組に出演するということで、家でラジオ聞くこともないのでアプリをダウンロードして聞いてみた。

 

 

その時感じた、雑音なしのラジオ番組の違和感

 

 

別に大分にいて大分の番組を聞くのだから、雑音に苦しむ必要がないはずなのに、なにか違う感

 

 

 

結局、別件で外出する用事があり、車の中でカーラジオで番組を聞いた。

 

 

 

 

 

今、自分がセミナーのオンライン配信で一番気を使っているのが音問題

 

 

他のセミナーや配信を見たりしても「ノイズ気になるな〜〜」「音遠いな〜〜」「声割れてる」とすごく気になる→自分だったらどうするかを考える。

 

 

でも、ラジオを聞く時はなんか雑音がないと 違和感

 

 

 

 

また、いろんなライブ配信に参加することもある。すごい業界内で有名な人に自分のコメントが読まれるとうれしく、それはラジオ番組に出したハガキが読まれたときと似たような感覚になる。ライブ配信だと、NOWのコメントがその場で読まれる。ハガキを買いに行って、読まれやすいようなネタを選んで、目立つように縁を蛍光ペンで塗ったり装飾を施す(ハガキ職人のテクニック?)などしなくてもよい。

 

 

 

手軽がいいのが良いのか

 

 

雑音も必要なんだけど、排除すべきなのか

 

 

 

 

 

技術が進む一方で、変わらないでいてほしいものもある

 

 

 

 

そう考えると、古いけどいいものって残っていくんだろうな と思った。

来週は仕事なので、この週末は期日前投票に行ってきました。
 
もはや、若者に響かせることのできないおじさんの声ですが、これでも昔は大分でもこういう活動はあったのですということで回顧録代わりに若者向けの投票率向上の活動について紹介しておきましょう。
 
 
そもそも、東京で活動していたころの後半期は多くの活動が議員インターンシップに関することだった。
 
NPO法人ドットジェイピー関東支部の第19期生だった自分。
 

 

 

 

インターンをしたのは2007年の第21回参議院議員通常選挙。

そう、あの自由民主党が歴史的大敗を喫した歴史に残る選挙。

 

 

『ん?これってもしかして、何か変わるんじゃない?』

 

そう思わせてくれた時代の流れだった。

 

 
 
インターンをするまでは、議員の仕事ってよく分かんないし難しそうだし・・・と思っていたが、いざ接してみるとものすごく人間味にあふれる、そして政治も実はおもしろおかしく裏で作戦立てて戦略的に国を動かしていることが知れた。
自分がその日の事務所で知れたことが遅れてニュースになってたり、もう決まってることをワイドショーのコメンテーターがあーだこーだ言ってるのが愉快で、妙な優越感を味わっていた。
 
そのくせ、夏の暑い日に自転車で選挙区内を回ってポスター張りをしたり、朝の辻立ちをしたり・・・。青春の一ページ。
 
 
政治に無関心でいることはできても、無関係でいることはできない
 
これはその時のインターン先だった議員の言葉。
 
また、そのころ医学部の編入試験も控えていたが、すごく応援してくれた。
 
 
僕が、東京にいながら大分の地域医療の実情を知ろうと検索をかけたのは大分県議会の議会議事録であり、地域枠の奨学金制定に浮いて議会で発言していた議員の事務所に直アポを取り、そこから市議を紹介してもらって病院見学をした。
 
「なんか東大生が・・・」
 
と、びっくりさせてしまい申し訳ありませんでした。謎ですよね。
 
 
 
ちなみにいま、その時見学に来た病院で麻酔科医として勤務しています。
 
 
 
 
大分に帰って、最初にBTGの活動で考えたのが議員インターンだった。
 
 
一応、学生団体として活動するうえではすべての会派に平等であるべきだと、すべての事務所にアポ取りをして会った。
 
 
が、そもそもこういう学生活動が当時はなかったため、事務所に入るなり住所を書かされて親の仕事を聞かれたりサークルは何をやっていて何人いるかとか・・・そういう対応をされて、これは危険だと感じた。
 
 
唯一、東京の某私大出身でドットジェイピーのこともご存じだった議員秘書さんが、「いいね!」と言ってくれ、とりあえずBTGでの活動先の事務所を決めることができた。
 
 
おかげで、大分の地域のことや、まちなかで道路や施設の使用許可の取り方、大ホールの裏方やイベントの組み立て方など多くのことを勉強させていただいた。
 
 
 
 
これはイケそう?と、正式に議員インターンシップと名付けて活動もしたことはしたのだが、なかなか地方議員さんの方がそういう学生に慣れていなかったり、若い人との出会い系と勘違いされたりして、根付かせることは難しかった。
 
 
若者の政治離れは、政治家のせいもあるのではなかろうか・・・。特に地方はね。
 
 
活動する大学生グループがメディアに出たりすることで、他の会派の事務所も同じようなことを大学生を使ってやったりしていたが、公職選挙法に触れるギリギリのことをさせられたり(それでも選挙カーに乗れれば学生はドヤって満足)、ただの都合の良いボランティア扱いで終わったり・・・。いろいろありました。
 
 
 
一方で、若者向けに投票を呼び掛ける活動も行っていた。
 
東京の頃のコネをフル活用し、全国の若者向けに投票を呼び掛ける活動=「夏政り」の大分を担当。
 
 
△旧大分駅での写真(超貴重)
 
 
SNS場で呼びかけをしたり、いろいろ東京の学生団体と組んで全国展開の学生イベントの大分版を担当することが多かった。そこから派生して独自の企画も・・・・
 
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△選管とのつながりもでき、着ぐるみを借りれることに
 
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△I WILL VOTEは、当時はやったスケッチブックでメッセージを出してSNSに投稿するという全国活動。
全国47都道府県で、下記HPのTOPに表示されている写真のうち大分県が一番多い♪ がんばった~~~!!
 
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△事あるごとに借用されるめいすいくん
 
 
 
いろいろ振り返りながら、過去のブログを貼っておきます
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
これらの記事の中に登場する人の中には、市長になってたり、今度の選挙に出馬して今まさに戦っている人もいれば、志半ばに不幸にもなくなってしまった方もいて、いろいろ思い出しました。
 
 
 
いよいよ来週、第49回衆議院議員総選挙。
 
 
 
仕事なので、投票した候補の事務所の開票所には行けない(TV中継や裏方の動きなどものすごく勉強になるんだけどな~~)のが残念ですが、テレビで見守ることにします。