「 勝者が歴史を塗り替えた?(花街漫録正誤の検証:前編) 」 | 【(有)種亀ブログ】私、もなかの皮屋の六代目見習いです。

「 勝者が歴史を塗り替えた?(花街漫録正誤の検証:前編) 」

さて、先日ご紹介した「花街漫録正誤」という文献に力を借りて、
「花街漫録(西村藐庵)」のふにゃふにゃ文字を読み解いてみましょう。
(といっても、私は頂いた資料をタイピングするだけですが・・・)



いきなり現代のブログらしからぬ体裁になってまいりました。
まぁ、しばしお付き合いください。  まず前半部分をみていきましょう。

ここにはこう書いてあるそうです。


「 江戸町二丁目竹村伊勢大掾「〔割註〕万屋伊兵衛」は、
  先祖を竹村鷺庵「〔割註〕茶人系譜云、林道渓門葉如鷺庵雪片居士、隠居して浅草に庵を結ぶ。
  遠宗拾遺を著す。」といひて、何がしの国の守に仕て、茶道をつかさどりけるが、
  故有て御暇を申請、知る人あるをもて、この里に住居し、その道の数寄者とて、
  茶の湯の稽古などして暮しける。 」


よ、読めないでしょー・・・〆(@o@;   当時の人は読めるのだろうか・・・
そんな素朴な疑問は置いておいて、著者(喜多村信節)はこの記述にこんな正誤をつけています。


〔 正誤 〕
 この家もと万や伊兵衛と云。宝暦十二年道中双六と云細見にも、兵庫や伊介の隣に、万や伊兵衛とあり。
 安永二癸巳秋、この婦み月云細見の末に、吉原名物の部袖の梅、これはあき人家々にあり。
 巻せんべい中のくわしや万屋伊勢、最中の月松や忠治郎、甘露梅山口や半四郎、
 豆ふ山や市右衛門、つるべそば五十軒道増田や半治郎、安寧湯ふり出し諸病によし。
 取次中の町みなとや権兵衛、かくあれば伊勢と呼たるは近き事とみえ、且もなかの月も、
 元来ここの名物には非ず。


驚くべき凄い事がさらっと書いてありました。。。
「最中の月松や忠治郎」と「且もなかの月も、元来ここの名物には非ず。」の部分です。

「最中の月」が竹村伊勢発祥のものではなく、
「松や忠治郎」である可能性が読み取れます。。。


えー!
これってあれですかね。

「勝者が歴史を塗り替えた」的な、
竹村伊勢が松や忠治郎の「もなかの月」を真似たんだけど実際には竹村伊勢のほうが力があったので
そちらが「本家」みたいな形で歴史には残ってしまった、みたいなことなのでしょうか。

それを今回たまたま、地元の隠居さんが書き残した随筆から事実を掘り起こせたということなのでしょうか。


最中を生業とする人間にとっては、信じていたものが揺らぐほどの衝撃です。

次回は後半を読み解いていきます。




「水路」
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「 本当の願い書けずに星今宵 」