「 駒形一丁目の鳥越氏子:志ん猿町会 」 | 【(有)種亀ブログ】私、もなかの皮屋の六代目見習いです。

「 駒形一丁目の鳥越氏子:志ん猿町会 」

今日のお話はかなりマニアックな話になりますが、
駒形の歴史に興味がある方に読んでいただけると幸いです。
鳥越祭に興味がある方にも長いのを我慢して読んでいただけると嬉しいです。

おそらく自分自身が今後読むことがあると思うので、
シリーズに分けず、一気に書きます。



昨日、犬の散歩中、浅草消防署の前でこの幟を発見しました。
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駒形1丁目は、浅草消防署と駒形どぜうを結ぶ道路で、町会組織が南北に分かれています。

弊社のある北側「駒形町会」は浅草神社氏子で、三社祭。
浅草消防署やバンダイ本社がある南側「駒形南町会」は諏訪神社氏子で、駒形祭。

両町会とも同じ日に祭礼を行っていますが、各々違う祭礼を執り行っているのです。



で、この幟。鳥越神社御祭禮。
通常なら、なんでこんな鳥越神社から離れたところに幟が??ってなりますよね。

実は駒形町会のこの番地(1丁目2番地と5番地)は鳥越神社の飛び地なんです。
鳥越神社での町会名は「志ん猿町会」。

そう、駒形1丁目は、
「鳥越神社」「諏訪神社」「浅草神社」の三社氏子が居住する町会なのです。



「志ん猿町会」については、
鳥越の先輩より話を聞いていたので存在は知っていました。
その際に、
「平成二十四年 創立百周年記念 鳥越神社氏子十八ヶ町睦会」
なる、立派な記念冊子を貸していただいたので、読破し、
同じ町内でご近所の「志ん猿町会」について自分なりに調べてみました。



この「志ん猿町会」の「猿」というのは、
もともとここが「猿屋町代地」であったことが由来となっているようです。

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スマートフォンの簡単なアプリですが、江戸時代(ざっくり)の
地図を表示出来るアプリで、該当エリアを表示してみました。
諏訪社のある西側と南西側の地区が「猿屋町代地」であることがわかります。

そしてこの「代地」というのは、何らかの原因により
もともとあった「猿屋町」を離れ、幕府からこの土地を代りに与えられたことを指します。

その元々の土地というのがおそらくこちら。

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画面左上に鳥越明神があり、その下に流れる鳥越側の南岸一帯と北岸一部、
また南側一帯の西側にある、「御廻米納会所」「御改正会所」を挟んで
数カ所「猿屋町」や「猿屋町代地」があるのを確認出来ると思います。


「猿屋町」はもともとこの位置にあり、この位置でしたら
鳥越神社の目の前ですので、氏子であるのも頷けます。

因みに「猿屋町」という名称は、由来などを記す『御府内備考』によると、
寛永七年(1630)としているそう。
徳川三代将軍家光の時代で、歴史の古い町の一つといえる。

名称の起源は、
「越後国猿屋村より罷越候者にて、
猿屋加賀見太夫と申舞太夫にても御座候、
右の者往古當所にて住居罷在候由、
其後町屋に被仰付候ても里俗に猿屋町と相唱、自然町名と相成候、・・・・・・」

 この他、猿回しが大勢住んでいたから、とする説もある。
いずれにしろ俗称が正式な町名となったらしい。
明治以後も町域に多少の変動はあったものの、その名は存続したが、
昭和九年、浅草橋三丁目となって消滅した。



では、なぜ駒形に代地をあてがわれたのか。

まず、享保17年(1732)3月28日に浅草本蔵寺門前(現浅草4丁目北部付近)からの
火災により、この地域まで延焼したようです。
それに伴い、同年5月幕府が一部米倉(浅草御蔵)火除地として公収。
当時の浅草諏訪町に代地をあてがった。

これが主な要因のようです。


そして寛政元年(1789)12月、公収された土地の東側に札差御改正会所が造られ、
同6年2月にはその隣接地に御廻米会所が造られた。
前者は札差から御家人達へ貸し出す金利の取り締まりを所管し、
後者は上納米を改めたりする役所であったそう。
これは先程の地図でも確認できるので、先程の地図は少なくとも1789年以降のもの。


これまで説明した経緯で、
1732年に移住することになり、2012年現在でも氏子であることに
ものすごい感動を覚えました。
300年近く飛び地で、現在は鳥越の神輿も回ってこないにも関わらず、です。

お借りした百周年記念冊子に目を通すと、
明治末期に「鳥越八ヶ町」という一種の連絡組織があったそうで、
言い伝えに間違いがなければ、
宮元・向柳原・猿屋町・小島町・七軒町・永住町・安部川町・栄久町。

これは私の仮説ですが、
この頃の猿屋町は、元々の猿屋町と、駒形の猿屋町代地の合同体で、
昭和九年の町名改称で元猿屋町が浅草橋三丁目として消滅した際、
元猿屋町は浅草橋三丁目になり「浅三町会」に、
駒形の猿屋町代地の人々が「新猿屋町」=「志ん猿町会」になったのかもしれません。



私が何を出来る訳でもありませんが、
今後も是非脈々と後世へ伝えていっていただきたいと思います。

ご近所にこんな素晴らしい話があったとは!
感動しました!
幟一つの裏側に、これだけの歴史があるんだから堪らない!



最後に:原典をあたっておりませんし、孫引きだらけで間違っている部分も
あるかもしれませんが、それは何卒ご寛容の程お願い申し上げますー。

●今回参考にしたサイト
浅草消防署
大成建設ライブラリー
Wiki-猿屋町御貸付金会所
台東区の町割り今昔


< 追 記 >
ここまでお読みいただいた方は、かなり歴史に興味ある方のはず!?
私の所属する駒形町会や、浅草の歴史について調べた記事もありますので、
お時間許せばこちらも是非お読みいただければ嬉しいです。

    浅草寺御本尊の出身地(有力説)

    「 箱根の駒形大神

    「 「駒形縁起」に没頭

    「 妄想小説:浅草駒形縁起

    「 歴史を追う