日本軍による西洋人捕虜のホロコースト | 丹波マンガンのブログ

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日本軍による西洋人捕虜のホロコースト

日本軍の捕虜の扱いは(前赤十字条約)ジュネーブ条約に衣食住、職種等に完全に違反しており、食事、住居、労働時間など武器を持たない捕虜の虐殺はナチスドイツより酷いといわれている。

 

泰面鉄道

1942年7月~43年10月まで日本軍が侵略範囲を拡大する為、軍物資の輸送を目的としてタイからミャンマー(当時ビルマ)まで415km(東京-京都間位の距離を1年余りで完成させるという無謀とも言える計画)に及ぶ鉄道を創った。

6万5千人の連合国捕虜とアジア各国から30万人(実際には45万人といわれる)の強制連行者が集められた。

英国領だった時、英国人技師が建設を諦めサジを投げる程の難所で崖の岩盤を切って鉄道路を創った。崖の高い所では岩盤の上に材木(鉄がないので)で橋脚を創るなど超難工事である上に突貫工事の過酷労働で枕木と同じ数の10万人が虐殺、虐待、食料を与えない餓死、マラリアが脚気、危険作業などで亡くなった。

といわれ遺体は鉄道の横に埋められた。

他に又連合軍捕虜も約6万5千人の内1万2000人が死亡している。

オーストラリア人捕虜は9500人の内2646人が死亡している。

これを「戦場にかける橋」という映画で世界中に知られる所となった。

一部は現在も鉄道として運行している。

 

パターン死の行進

1942年1月に日本軍はマニラを占領した。

同年4月3日からアメリカ、フィリピン(米比)軍と日本軍の総力戦が行われ、4月9日、サマット山の陥落により米比軍は降伏し南シナ海とマニラ湾のバタアン半島も日本軍が占領し多くのアメリカ兵とフィリピン兵が捕虜となった。

1942年4月、日本軍はバタアン半島を占領した後、捕虜となった米比軍兵士約7万6000人を捕虜収容所への移送のため最長100数キロ歩かせた。

日本軍はアメリカ軍の降伏前から、半島からの捕虜移送計画を立てていたが、実際に捕虜にしてみると捕虜の数が多く捕虜の数は想定(約4万人)の約2倍だった。実際に車両の移送は出来ないと判断し歩かせることにしたという。

同年4月10日に7万6000人の捕虜のうち半数が半島南端、マリベレス近郊を出発。もう半数は4月11日、バタアン半島西海岸近郊のバガクを出発した。

4月のフィリピンは乾季にあたる。灼熱が容赦なく照りつける中、一日に20〜25キロほど徒歩で行進したという。

捕虜たちは、武器以外にも貴重品や食料などを日本兵に次々に取り上げられた。

バタアン半島での約3ヵ月の戦闘により、降伏時すでに身体は弱っていたが、行進中は食料や水分もほとんど与えられず、常に喉の渇き、飢えに苦しんだ。

マラリアや赤痢などにかかった人も多くいたが、適切な治療はなく、ただ、歩き続けた。

水を求めて井戸に行っただけで虐殺され、人列についていけず遅れをとって倒れた捕虜は、日本軍の監視兵により銃剣で殺された。

『バターン死の行進』2011年、河出書房新社

途中、数が多い捕虜の数を減らす計画が持ち上がりパンティンガン川でフィリピン第91師団の捕虜を400人くらい虐殺した

銃剣で何回も刺され、または、首を切られ、腹を切り裂かれ谷に落とされていったという。

死者数は7000人とも、2万人とも言われる。日本軍の収容所での死者も合わせると約4~5万人ともされている。

この「死の行進」は日本軍の残虐性を伝える事件として知られている。

フィリピンでは、バタアンが占領された4月9日は、戦闘や死の行進の犠牲者を悼む日として祝日となっている。

現在、捕虜が歩いた道のりには、1キロごとに白い碑があり、終着地点まで続いている。いずれも、行進の距離を示す数字と「DEATH MARCH」(死の行進)という言葉が記されている。

太平洋戦争当時は、1929年にジュネーブで調印された「俘虜ノ待遇ニ關スル條約」(俘虜待遇条約)などで捕虜の保護が国際的に定められていた。

この時に敗退を迫られた屈辱と後の米軍兵の虐殺を知ったマッカーサーは日本軍への復讐を誓い、この事が日本本土への原爆投下を強く進言する契機になった。

このように欧米人兵士も武器を持たない捕虜も容赦なく虐殺し東京裁判で死刑を言い渡されている。

 

サンガダン死の行進

1945年1月~6月に日本軍がボルネオ島(マレーシア)の北東のサンガダン捕虜収容所からから連合国捕虜2500人とオーストラリア人捕虜1793人をラナウまで260Kmの道のりを徒歩で物資を運ばせた。

出発時2500人は居た連合国捕虜が虐待、餓死、マラリア等でが1500人が途中で死亡したが残った1000人に死亡した者の荷物を担がせ出発時2500人いた連合国捕虜は約84%が死亡しラナウに到着した時には僅か350人になっていた。

オーストラリア人捕虜も同じように強制労働させられ出発時1793人いた捕虜は90%以上が死亡して約150人になっていた。

日本軍の虐待、餓死、マラリア等で1500人以上が亡くなり連合国捕虜とオーストラリア人捕虜の4千人が死亡した。

日本では加害の歴史を学校でも教えられずマスコミも国民に報道せず無かった事にしたい。忘れて欲しいとして忘れ去られているが世界では「サンガダン死の行進」という「日本軍が非道なホロコースト」として世界に広く知られている。

日本政府も右翼もネトウヨも日本軍の加害を全て否定しているのだがこの加害も完全否定するのだろうか。

日本政府も認めた正当な裁判の結果。犯罪者の処罰が行われたこの出来事を完全否定できない。と思料するが、それでも完全否定するのだろうか。

ナチスドイツはユダヤ人をガス室で殺したが日本軍は食料も水も与えず飢えで苦しめた挙句、病気にかかっても治療もしない。過酷な強制労働をさせる。のであればユダヤ人のガス室の方が一瞬で苦しめられず死ねるので日本人のホロコーストより、ましなのではないか。

日本人では無い。と理由だけで非道な扱いを強要し武器を持たない捕虜を国際法に違反して虐殺した日本軍の行為はナチスドイツをはるかに超えた非道極まりないものでした。