生活保護を受けたいと“SOS”求め

亀鏡山正円寺は仙台の古い寺町、新坂通にあり、2代藩主伊達忠宗の「お手植えの松」が参道にそびえる由緒ある寺だ。「うちの息子が逝った時、こちらの敦賀住職にお世話になり、墓があるんです。それ以来のご縁で、仙台で亡くなった自死遺族の仲間の枕経もあげてもらっている」。5月下旬、真新しい位牌を手にこう語った田中さんは、警察官だった長男健一さん=享年34歳=を2005年に自死で亡くし、翌年、仙台でたった一人から「藍の会」を立ち上げた。悲しみ苦しみを抱えて人に語れず、相談する先もない多くの当事者の心の拠り所になり、支援を続けてきた。 

正円寺に納めた佐藤公正さんの位牌を見る田中幸子さん=2024年5月22日、仙台市青葉区新坂通

佐藤公正さんと出会ったのは、藍の会結成から1年が過ぎたころ。田中さんが載った新聞記事を読んで連絡をくれた。母親を自死で亡くし、ほどなく父親もがんで他界し、残された借金を抱えた上、無職でアパート代も払えない状態だったという。「分かち合いに来たいというよりは、生活保護を受ける手続きの助けをしてほしい、そのための緊急連絡先になってもらえないか、という“SOS”でした」 

<田中さんは、行政や社会の助けなく孤立する遺族を支援する「全国自死遺族連絡会」も08年に設立(代表理事)し、当事者による全国フォーラムを毎年催す。内閣府や宮城県、仙台市、角田市の自死対策委員を務め、多発する学校のいじめ自死事件で遺族代理人や第三者委員や引き受けている。HP『一般社団法人 全国自死遺族連絡会 (zenziren.com))』。24時間の電話相談も=連絡先090(5835)0017= (2023年11月23日の記事『いじめ自死事件の遺族支援に奔走「当事者の声で現状変えたい」仙台の田中幸子さんに聴く 』参照)> 

いじめに苦しんだ日々を背負い 

初めて訪ねた公正さんのアパートは、自分が寝る布団の他に家具がほとんどなかった。あったのは、つぎはぎだらけのズボンや穴の開いた靴下など古びた衣類。新品を買えなくて、母親がミシンで繕ってくれたという。以前、水泳のインストラクターをやったことがあるといい、また仙台の会社で短い間、働いた記録はあった。 

「自分を語りたがらない人で、お酒を飲んだ時、打ち明けられた話はこうでした」と田中さん。公正さんの父親は医療関係の販売の仕事で全国を歩き、自分は東京の私立小学校を出たという。水泳大会で表彰されたそうだが、吃音(どもり)があり、そのために同級生からいじめを受けて、中学校まで不登校になった。公正さんには対人的な軽い障害もある、と田中さんは感じたという。

「名前の公生の読みはもともと『きみお』で、なぜか、それも『きみよ、きみよ、女の子みたいだ』といじめの種にされたようで、自分で『こうせい』と名乗るようになったそうです」 

田中さんは新しいアパートを見つけ、区役所に生活保護を申請し、月々十数万円の生活保護のお金が振り込まれると、公正さんはついつい好きなお酒を買って飲んだ。田中さんはまず家賃と公共料金を払わせて、「私は生活指導をした」と笑う。 

自死遺族の集いに役目と居場所 

警戒心が強く、人に心を許さなかった公正さんは、田中さんとの出会いをきっかけに、藍の会の集いに参加するようになった。自らは語らなかったが、わが子を亡くした母親らの悲しい体験の分かち合いをそばで見守りながら、お茶を出したり、お世話役をしたり、少しずつ冗談を言ったり。和やかな雰囲気づくりに役目と居場所を見つけた。田中さんは古着を捨てさせ、衣料店に連れていって自腹で身なりを整えさせ、長男健一さんのまだ新しい服もあげた。女性の遺族らから「ちゃんとしてる、さっぱりしてる」とほめられ、服もプレゼントしてもらえるようになった。 

それでも、支援者から生活保護の身を蔑まれるなど傷つけられ、もめたり、けんかになったりこともあった。「いつも何かを我慢していたので、耐えられなくなると夜中に電話を寄こし、泣いて悔しさを訴えた」と田中さん。「爆発するまで我慢するな。泣きたくなるまで嫌なことはするな。やりたくないことはよしなさい。私はこの世のお母さんだからね」と言い聞かせた。

公正さんはまた泣いて、「俺は田中さんを助けるから。どこまでもついてゆくから」と言ってくれたという。唯一ゲームが趣味だった公生さんは、パソコンを使って田中さんのブログなども手伝い、また各地の自死遺族との交流や会合に出掛ける際も、あちこちに同行してくれた。 

打ち明けられた家族喪失の過去 

そんな田中さんも「よく分からないままだった」公生さんの過去が、自身の口で打ち明けられたのは、ある夜のお酒の席だった。それによれば、仙台には父親名義の土地があったが、家族が大きな借金をつくったことで絆は壊れ、その返済に、公正さんの相続分も含めて財産が一円残らず使われたという。渦中で母親は自死し、父親はがんを患って他界し、公生さんは天涯孤独で貧困の中に置き去りにされた。 

大好きな母親は田沢湖で亡くなったといい、「彼は、湖の写真のカレンダーが部屋にあるだけで過呼吸を起こした」と田中さん。「現地で火葬されたお骨を引き取りに行った記憶も心の傷になり、しばらく新幹線に乗ることも辛かった」。家族のアルバムも捨てたらしく、ただ一枚、若い時の母親との写真を大事にしていた。 

生前の公正さん(左側の人)を伝える唯一の写真。カメラを好まず、仲間の記念撮影にも入らなかった(田中さん提供)

高次機能障害、すい臓がんを抱えて  

元気だった公生さんが、突然の脳梗塞と脳内出血で倒れたのは、コロナ禍のさなかの2021年5月。命は取り留めたものの高次機能障害が残った。以前から心臓肥大の持病があり、その血栓が脳に飛んだ、と医師から説明されたという。田中さんは、介護付きの賃貸住宅を探して入所させた。 

「見た目もしゃべり方も変わらないけれど、一人暮らしにも戻るのは無理だった。アパートを引き払い、仏壇はお焚き上げをしてもらい、位牌だけ、入居した部屋に置いてあげた。でも、両親がこの世にいないことも分からなくなっていた」 

ただ、がらりと人が変ったことを田中さんは感じた。「それまで嫌いな人が多くて、日頃いろんなことに怒っていたのに、怒りが消えたように穏やかになった」 

依然と変わらず多忙だった田中さんに、公生さんに「すい臓がん」が見つかった、と連絡があったのは昨年11月だった。入所施設の定期健診をきっかけに、検査した病院の医師から「余命半年」と告げられた。田中さんは「せめて静かに過ごさせたかったが、医師からは手術を勧められ、それを受け入れた法定代理人の意向に従うほかなかった」。術後の公生さんを医療サポートのあるナーシングホームに移したが、抗がん剤治療の影響から、体は弱って起き上がることはできなくなった。 

面会も制限され、見舞いに訪ねた4月、「私のこと覚えてる、と聞いたら、『忘れませんよ』と答えた。でも、『疲れてる』『ご飯を食べられない』と力はなかった。顔は真っ黒に変わっていました」。着やすいパジャマを次回に買ってくると約束し、「必ず良くなる。頑張って治そう」と声を掛けたのが最後の会話になった。 

悲しみを分かち合い、励まし合う歳月から  

公生さんの位牌がある正円寺での取材の帰り道、田中さんと「献杯しましょう」と仙台駅近くの通称・仙台銀座にある「むろ」という居酒屋に寄った。生前よく連れてきたという店だ。店主の阿部静日(しずか)さんは、公生さんのために大盛りポテトサラダを作った。「彼の好物で、つまみじゃなくて、ご飯みたいにぺろりと食べた。お酒もあっという間に飲んでは『お代わり!』。無邪気な子どもみたいだったよね」 

公正さんをしのぶ献杯の席。好物のポテトサラダが大盛で供えられた=仙台市青葉区・仙台銀座の「むろ」

公生さんのささやかな葬式には自死遺族や、田中さんが東日本大震災の後、分かち合いの場をつくった津波犠牲者の遺族が集った。いずれも公生さんと親しく触れ合った人たちだ。親類との付き合いはなく連絡先も不明で「お線香を上げたのは9人、みんな他人でした」。費用は区役所の生活保護課が補助金を支給してくれた。 

身寄りのない人が亡くなると、役所が火葬をし、引き取り手がなければ合葬墓に埋葬されるという。孤独な死の行く末だ。「人はいずれ亡くなる、避けては通れない。皆、自分の最期の身の処し方を考えて生きるべき」と田中さんは話す。 

藍の会の創設から今年で18年になる。会につながる遺族たちも共に年を重ねてきた。“おひとりさま”と呼ばれる境遇になっても、愛する者の喪失の悲しみ苦しみを分かち合い、励まし合って生きる歳月の中で「新しい家族の縁を結んできました」と田中さん。「最後は必ず誰かの世話になるのだから、思い合い、助け合おう。そんな絆にしたい。あの公正くんも、もう天涯孤独ではなかったのだから」