沖縄「くくむいの里の会」
 自死遺族の自助グループ
6月7日(日) 14時~
 場所:「なは市民活動支援センター」
     沖縄の遺族の方 遺族だけで運営しています。
    医療や心理の専門家ではないわたしたちができること
わかちあうこと 支えあうこと
    カウンセリングやケアはできませんが
  一緒に歩くことならできます

  同じ立場  同じ悲しみ  を抱えた遺族同士が集い
      泣いたり 笑ったり
泣き笑いになったり  
一度でも 気が向いたときだけでも  気楽に立ち寄ってください

   本名を名乗らなくてもOK
    ニックネームでもOK
どこからきたのかも言わなくてOK

    誰を亡くしたのか・・・だけを伝えるだけでOK

    その場にいるだけでもOK

途中参加 途中退席Ok

  同じ思いの遺族がお待ちしております。


 

岡先生の原稿からの抜粋

 

平山正実が

「自死者の名誉回復宣言」を

自死者に対しては、「この世の競争に敗けた憐れな人間だ」
「生きていたいのに死なざるをえない人が多い中、少しぐらい辛いからといって、死んでゆくのは、わがままだ」
「かれらは、人に迷惑ばかりかけた」といった批判的な意見が投げつけられることが、少なくない。
そのために、自死遺族自身も世間に対して負い目や恥の感情を持ってしまう傾向がある。

さらに自死者は「『 . . .  命を殺めてはならないという戒律を破った』
『世間に迷惑をかけた』『遺族を悲しませ、しかも恥をかかせ、肩身の狭い思いをさせた』
『自死者自身、この世の敗北者だ』といった中傷や非難、攻撃のことばを投げつけられる」
という。

 このような社会にあって、遺族が、ひとりだけで、
あるいは一つの家族だけで、亡くなった人について臆せず、堂々と語ることは、非常に難しい。
それは社会の冷たい反応を恐れるからであり、
あるいは、遺族になる直前まで自死者に冷酷な社会の一員であったためだろう。
だからこそ、自死遺族の自助グループが全国的にかなりの広がりをもってきた現在も、
自死遺族である自らを隠し、マスメディアに自分の名前と顔を出している人は、ごく少数である。

 とすれば、自死者の名誉回復宣言は、まずは自死遺族自身に向けて行われるのだろう。
自死という命の終わりかただけで、一人の人の人格が否定されてはいけない。
その家族であるということの誇りも失われてはいけない。
自死者の名誉回復は、自死遺族の名誉回復でもある。

 亡くなった愛する人のことを誇りに思うと口にするのは、
寒空のもと、吹雪のなかで歌を唄うようなものかもしれない。
とすれば、まずは、自助グループのわかちあいという「暖炉」のある守られた部屋のなかで、
亡くなった愛しい人や、楽しかった家族の日常の話に華を咲かせてもいいのではないかと思う。
そうやって、長いあいだ禁じられて、封印されてきた温かい気持ちが、
湧き出る泉のように浮かび上がってくるのを待つのである。そして、充分に身体が温まったら、
ドアを開けて、寒い外に出ていくことができる。

 心理治療のように、心に深く埋められた怒りや恐れ、悲しみや絶望感を掘り出すのではない。
そういう害のある毒々しいものを探すのではなく、
優しく、明るく輝いている思いが、周りの人の目を気にして隠れてしまっているので、
それが安心して、顔を出せるようにしていく。ナイフで切り裂き、
傷口から何かを取り出すのではなく、両手で温めながら氷を溶かすと、
穏やかな花がゆっくりと咲くというイメージだ。

 自死遺族が誇りを取り戻すのは、自死や自死者に冷酷な社会では、
                    容易なことではないと思う。

しかし、それは不可能ではないし、それを可能にするのが、自助グループである。
そして、それを可能にすることで、遺族の自助グループは、遺族の意識を変え、
より力強い活動を展開できるようになる。自助グループでいう「ときはなち」の働きが、そこにある

2598

 

 

自死遺族の自助グループが全国的に広がるためには何が必要か、とたずねられたら、
私は何よりもまず「遺族としての誇り」だと答えたい。
行政からの支援や、広報活動も大切だが、そこが基盤にあるのではないと思う。

立派な息子だった、素晴らしい娘だった、優しい夫だった、とても愛らしい妻だった、
母は美しい人で、父は思慮深い人だった。
そして、私たちにとって、かけがいのない人たちで、家族として、
ひとつ屋根の下で、幸せで心豊かな時間をともに過ごした。これが遺族としての誇りなのである。

そんな愛する人が、みずから命を断ち、突然いなくなった。
それを他人(ひと)は裏切りと呼ぶかもしれないが、
それは私たちがともにすごした長く愛(いと)おしい日々を知らないからだ。家族の思いには、家族しか知らない光景が無数に重なっている。あなたたちは何もわかっていないと、遺族は世界に向けて言いたいことだろう。

愛しい人の命が自死で終わったとしても、その人生が失敗だったわけではない。
生きてきたことが無駄だったわけではない。家族が無惨にも、すっかり壊れた、というわけではない。
しかし、そう他人(ひと)からは思われているのではないか。
そうではないと言いたくても、それを世間は聞く耳を持たないのではないかと恐れてしまう。

「とても素晴らしい人でした。家族として、いっしょに暮らせてとても幸せでした」と、
胸をはって言っても、すぐそのあとから、
「でも、自分で死んでしまったんだよね、残念だったね、悔しいよね」と言われてしまう気がする。
そして、そこからは「なぜ、私を残して死んだのか」という恨み言と、
さらに「どうして(自死を)止めることができなかったのだろう」という自責の言葉が、
遺族自身の口から出てくることを(周りの人は)待っているかのように思えてしまう。
そんなふうに先回りして考えてしまうから、遺族は、なかなか愛しい人への誇りを語ることができないのではないか。