悲しみは愛しさ
悲しみは、人間にとって意味が深く、大切なものなのである。決して「反応」や「症状」として処理されるべきものではない。
「愛しい」と書いて「かなしい」と読む。
「かなし」とは、
現代ではほとんど「悲しい」の意味で用いられるが、上代においては愛惜にも悲哀にも使われて、平安時代に及んでいる。「愛し(=いとおしい)」から「悲し」という変遷をたどるのではなく、「愛情」と「悲しみ」の心は根っこのところではつながっている。
愛と悲しみが「根っこのところでつながっている」
胸を締め付ける悲しみが亡き人への愛しさと考えたら、それは耐えるに値する辛さとなる。
竹内整一の「かなしみの『哲学』」という本
それによると古代の「かなしみ」は「人間の、思いのかなわなさ、あるいは届かなさ」と結びついていた
どんなにかわいがってもかわいがり切れないほどにかわいい、ということが、「かなし」ということである。ここにも基本的に、ある届かなさがある。
届かないほどの切ない「いとしさ」が「かなし」なのである。
つまり、愛しても愛しても十分とは思えないほど、愛している。十分に愛したいのに愛があまりに強いために、それが不可能なのだ。だから悲しい。それほど深い愛情なのである。