我々は唯識という、非常に古い心理学を理解しようとしているが、これがなかなか困難である。ところが、この困難こそが唯識である。とにかく、かつてのフロイトが無意識を発見したように、我々は令和の時代に心を発見しようとしている。なんと時代遅れな事をしているのか。


しかし、現代人は前世における心理学を学ぶことに意味を見出そうとしている。私からすると、先人の知恵を無駄にするな!と思うが、今から約2,000年前に起きた心の発見に心を奪われるこの時代錯誤な行動は、より心を痛みつける。


インドにおいては約2,000年前であるが、日本においては約1,500年前のこと。飛鳥時代への憧れを抱いている現代の日本人がいる。


しかしよく考えてみると、現代人において飛鳥時代を知る人など皆無である。知っている人がいれば異常事態となるが、何も知らないのに飛鳥時代を身近に感じる不思議な現象である。奈良時代も然りである。


このように、何も知らないにもかかわらず、その時代のことをさも知っているように感じる根源が心である。心がそうさせるのである。よって、歴史の教科書を覚えるだけでは満ち足りない何かがあり、タイムマシーンなるものをイメージしてしまうのが人間である。


タイムマシーンは過去へも未来へも行くことができる。心の中ではこれがいとも簡単にできてしまう。しかし、実際に過去や未来に行くことは不可能である。なぜなら、外から入ってきたものは全て幻だからである。


ところが、阿頼耶識から発せられる時間の感覚は本物となる。ここからすると、男性が女性へと変化する場合、これは時間の逆流を意味する。よって、男性が真に女性化を達成したならば、永遠の時間を手にすることが可能となるはずである。


この原動力となるのがエロ種子である。エロ種子が薫習することにより男性は女性化する。要するに時間を遡っているので、ここで若返りが起こっているはずである。ユング派では薫習している期間を「退行」と表現するが、エロ種子が薫習している時の身体的な変化を調べると、若返っているはずである。これが計測できれば、人間の時間に対する相対性が証明されるものと思われる。


さて、唯識で大切なのは、心がまだ身体から未分化である事である。つまり、心の存在は掴めているが、身体とは一体化したままの状態である事を理解しないといけない。


ゆうひが丘の総理大臣で中村雅俊は若い教師役として常に言葉にしていたのは、「人の心はないのか!」である。団塊の世代の合言葉であるが、要は、言葉の表面だけではなく、その言葉に秘められた深い意味を読み込んでいくことが必用だとする名文句である。


ある生徒による問題行動を表面的に捉えるのではなく、その行動の裏に隠されたものまで含んで生徒を評価せねばならないとの筋書きである。この時代に社会問題となっていたのは、バイクなどでの暴走行為である。その暴走行為はその生徒だけの問題かといえばそうではなく、両親の影を背負った結果、暴走せざるをえなかったとの、非常に手の込んだストーリー展開がなされる。


唯識派的には、両親を投影したことによる生き仏種子が阿頼耶識において薫習した事により、高校生でありながら如来の領域へ達したとなる。つまり、即身成仏である。


ここからすると、菩薩や分別ある私達のような現世に生きる人間のイメージとは異なり、如来とは異常なほどファンキーであると、ゆうひが丘の総理大臣からのメッセージである。菩薩や私達がバイクで暴走すれば警察沙汰であるが、如来はそうではない。むしろ、違法行為であっても人々から許されるのである。


このように、如来の行動を詳細に観察していくことにより、自分達の位置づけを行っていくのが夕陽丘世代である。彼らは暴走行為を目の当たりにしながら、そのファンキーさを自分自身に統合していく強さがある。これが大きな特徴である。


では、薬師如来はどのくらいファンキーであるかを吟味してみると、蛸薬師の話に集約されるのではなかろうか。ここで話題の中心となるのは、女装による奇跡である。


ここからすると、薬師寺の如来こそ、女装の原点であるかもしれない。つまり、ここでのエロ種子とは対象が如来ゆえ、有支種子と言い換えることが可能である。阿頼耶識で薫習することにより、有支薫習となる。つまり、一切の迷いのないアニマが薫習すると時間は逆流し、究極のエロが発生する。このエロが形になると、薬になるというプロセスである。


結論として、エロは人類を救うとなる。


次稿に期待されたい。