唯識心理学であるが、多くの日本人はやはり、意識を学ぶことにより唯識を理解できるとの思いから、意識から詰めていこうとした。ところが、ここにクレームが入ってくる。
私からすると、八識の内の1つは意識であるから、ここを徹底的に叩いておいてから、残りの7つの識、つまり、無意識に進もうと考えていた。ところが、意識の事などどうでもいいとする考えの人が多く困っている。
要は、唯識における八識の内の無意識の部分、七識のみをやってくれたらそれでいいとの事である。これでは唯識ではなくなる。さて、どうするかである。
無意識の部分のみであれば、評論家諸氏が既に行っている。それを読めばいいだけの話である。これと同じ事をまた繰り返すのは、学者としては心が折れる。
そこで場当たり的で申し訳ないが、意識と無意識とを同時に進めていくことにする。日本の仏教は日本人のためにある。よって、日本人用に改造したものを提供するのが筋である。この場に及んでインド仏教をそのまま学んだところで意味はない。
日本でも仏教の学界は大別して2分されており、1つはインド仏教。もう1つに日本仏教である。この内、私が目指す唯識心理学は日本仏教に基づくものである。よって、日本という地域に限定したものである。日本人のために作り上げようとしているわけで、ここを否定されると、では、インド仏教からやり直しますか?との話になってくる。
同時に私の理論を世界に向けて発信する事もあり、日本限定の仏教を国際化していくという逆説を解決せねばならず、教授という立場も楽ではない。
しかし、国際化については意識について徹底的に叩いていればどうにでもなる話である。つまり、地域性を高めることで国際化につながるので問題はない。真の問題は、日本人が日本人用の心理学を学ぼうとしない事である。
つくづく日本の難しさを感じるのであるが、やはり私としては、日本政府の関係者として、日本人のための心理学をやらなければ本末転倒だと思っている。よって、意識を意識化すため、同時に阿頼耶識の事例を使いながら意識を高めていく試みである。
ここから本題に入るが、日本人にとっては無意識が意識から攻撃を受けることにより精神状態が不安定になる。この状況を外向的な人が見ると、「表裏がある」と見える。日本人的にはこれこそが日本人であるが、性格が逆転すると、ものの見え方が逆転する。これを唯識では一水四見という。これは、餓鬼(がき)、畜生(ちくしょう)、人間、天人ではモノの見え方が異なるとの見解である。
餓鬼とは、「このくそガキが!」というときの餓鬼である。畜生は「チクショウめが!」というときの畜生である。これらは全て仏教用語である。
日本人は外向的な人からこのような意見を聞き、大きなショックを受ける。「私たちには表裏があるのか!」との落胆である。しかし、日本人は外向的な人を見てそのように思わないのか?との疑問がある。性格の傾向が逆転しているので、同じ現象が起きて然るべきである。お互いがお互いの事を「変なやつ」と思い合いながら国際化が進んでいると思いきや、そうではないところが日本の国際化である。ここでは、易経における陰陽の関係が成り立っている。ここに中国哲学の強さがある。
ではなぜこのような融合が起きるのかとの疑問である。ここを唯識を使って解いていくが、そもそもこれを疑問に感じているかが重要である。さて、読者諸氏、私の問題意識に乗れているだろうか。
人間である限り、100%の確率で表裏がある。表裏のない人間は存在しない。よって、西洋人にも表裏は確実に存在する。しかし、なぜか日本人はそこを見抜けない。否、見抜くことをやめてしまうのである。これは良し悪しの問題ではなく、性格の問題である。
日本人であれ西洋人であれ、八識が備わっている。しかしながら、使い方に違いがあるとここまでの差が出てくる。
日本人に表裏があるといわれる事に、多くの日本人は抵抗を感じるはずである。しかし、これこそが無意識であり、阿頼耶識そのものである。現代の日本人はこの嫌な世界に入る事を志願しているわけで、結果として、かなり強烈な苦痛が必要とされていると感じている。
この日本人の表裏であるが、日本人はそもそも阿頼耶識の世界の住人である。阿頼耶識に到達するわけではない。よって、唯識派においては、現世はすべて阿頼耶識から発生したものと考える。よって、実体はないとなる。その阿頼耶識は「分別自性」を通じ現世に体現化され、分別(認識)を行っていくとされる。
例えば、ロケットは阿頼耶識の中のものであり、それが現世において体現化されたに過ぎない。それをロケットと思うか否かは認識のやりようであり、餓鬼や畜生にとっては豚に真珠であるとの解釈が成り立つ。いわんや、神の領域は人知を越える。
窮極のドライである。
ところが、実際に宇宙に向けて飛び立つロケットを見たとき、実際例では、かつてアメリカのアポロ計画における月面着陸を見たあの当時の日本人は、手のひらを返したように驚いたのである。この現象を外向的な人々が見たとき、その表裏に驚くのである。
この事例に阿頼耶識的な解釈を施すと、阿頼耶識における依他起性が遍計所執性へ転じ老賢者の凄さを思い知る。ここで老賢者を認識する事になるが、逆にこの分別により苦しむことになる。この苦しみから輪廻転生を繰り返し、老賢者への階段を登っていき、円成実性なる悟りへ導かれる。よって、法相宗において、即身成仏は完全に否定されない。これについてはこれまで何度も主張しているところである。
このように、外からの圧力、つまり、意識が阿頼耶識に圧力を加え、日本人が宇宙への旅路へ目覚める事へと変化する原動力となるのが「名言薫習種子(名言種子)」である。これがイグニッションとなる。
ユング派心理学的に解釈すると、ある対象を投影した時に起こる「イメージ」に相当する。これが依他起性を転じさせ遍計所執性という元型イメージへと変化させる。総合すると、種子は元型イメージに相当するとなる。
この現象は外向的な人からするとあまりにも劇的であるので表裏があるように見えるだけのことである。しかし、唯識の理論からすると、外向的な人は既存の言葉や学問を否定することにより、つまり、依他起性における名言薫習種子しから発せられる餓鬼や畜生からの言葉に従うことによる遍計所執性に悩まされながらロケットを開発するのである。ここに日本人は驚いているのである。
かくして、両者は互いに驚き合っているのでお互い様であるが、プロセスについては180度異なる。近年の国際関係ではこの違いにおいて両者が引き合わせられるようになってきているが、両者は凹凸関係にあるわけではなく、同じものを持ち合わせているからである。
ここに唯識における阿頼耶識の存在、また、ユング派心理学における集合的無意識の存在を認めていくことになる。
次稿からは本稿において引いた仏教用語の解説を行いながら、意識との相互作用を論じつつ、阿頼耶識の体系化を進めていきたい。
期待されたい。