唯識の吟味を続ける。


唯識派は人間の心を主体とする派閥である。よって、華厳宗とは対立する。華厳宗についてはいくつか前に大乗仏教を3つに類型化した時、「どちらでもない派」という、第3の派閥を提示したが、華厳宗はこの派閥に属する。


よって、大和朝廷はその成り立ちからそして非常に複雑である。このような状態でよくも朝廷が成り立っていたと思うばかりである。


しかし、華厳宗もまた面白く、如来が中心となる。人間が理解することを仏教用語では悟りというが、一般的に華厳宗を悟ることはほぼ不可能とされている。


しかし、私たちは少なくともアマテラスを理解できているはずである。また、イザナキとイザナミが日本列島を産んだ事も理解できているはずである。神話はあくまでもあちらが主体の話である。よって、華厳宗も同じ方法で理解できなくては理論の破綻となる。


その意味で、藤原氏が仏神混合を唱えた事も理解できる。唯識派からすると、ある意味で当然の帰結であろう。これが唯識派の特徴である。つまり、心を利用して新しいものを作り出していく事を得意とする派閥である。


私は宗教学者ではないので唯識派であるか否かについての明言は避けるが、経営学者としての立場ではシュンペーター学派に属し、心理学者としてはユング派である。中国哲学においては儒家思想の学者である。よって、唯識派に非常に近い。


唯識派では心を分割した上で統合する事が特徴となる。現代用語的には新結合、つまり、イノベーションを行う事が特徴となり、保守とは対立する。これは伝統的な日本的な思想とは異なり、非常に分かりやすい例を示すと、アメリカ人の思想と酷似するものである。これが1,300年前の日本にあった事になる。


総合すると、唯識を信じるのであれば、それは非常にアメリカ人の思想に寄っていることを自覚しなければならない。そのくらいにパンクな思想の宗教である事を理解しなければならない。


とはいえ、過激思想ではない事を添えておく。過激というのは保守を守り抜く時に使う用語である。


ここまで押さえたところで、今日の唯識の内容に入っていく。


前稿では種子について吟味した。阿頼耶識、否、唯識についてはここを押さえていれば全て理解したことになるが、一応、別の専門用語を概観する。


種子には様々なものがあるように思うかもしれないが、実はそうではない。ここが現代人にとってはややこしい。経典において、種子は名言種子のみとなっている。そこに様々な説明が加わることにより、さらには3つの種子があるという。では、種子における六義の意味が問われるようになるが、これはまた後の議論とする。如何せん、1,300前の思想である。


ざっくりと阿頼耶識全体を割って理解すると:


*種子のパターン1


1:本有種子

2:新薫種子


*種子のパターン2


1:名言種子

2:業種子


以上の4つといいたいところであるが、ここは仏教、2+2との理解が必要である。


本有種子とは、これはユング派心理学での元型を意味する。つまり、先天的に備わっている種子の事である。


では後天的な種子、新薫種子とは何かといえば、過去の経験から元型が生成されるとの考え方である。ユング派心理学的な思考を混ぜ総合すると、行動を起こした数だけ、元型が存在するとの考え方である。


なぜこのような思想が生まれるかといえば、それは仏教だからである。つまり、後天的な要素がなければ如来が成立しないからである。ここが心理学と宗教との違いである。信仰の対象があるゆえ、如来との一貫性も必要となる。


名言種子であるが、これも様々な議論があるが、私なりに割り切ると、名言ということで、言葉による経験から蓄積される種子の事である。つまり、後天的なものとなる。しかしながら、これはあくまでも言葉によるものから生成される種子となる。


この名言種子の中に業種子がある。つまり、名言種子からスピンオフしたとの理解が必要である。


業種子のみを取り扱うと、これは種子の善悪の問題となる。これにはグレーゾーンはなく、陰陽の問題となる。要は、言葉で理解できないことを妥協して放置すると、それはマイナスに働くとの解釈である。


以上、2つのパターンを吟味してきた。


このように種子といえども、大別して2パターンある。それぞれは独立した別の考え方である。分割の根拠として、パターン1は心そのもの、パターン2は発想の生成の源泉が根拠となっている。


これを繋いでいくとまた面白くなる。


パターン1では、人間には先天的に如来になる素質があるから、死ぬほど努力しましょうとなる。


では具体的にどうすればいいかとなると、パターン2へ移り、文字情報から善悪を判断し吸収すること、つまり情報リテラシーが重要になるとの教えである。こうすることにより、如来への道が開かれるとの教義である。


ここからすると、阿頼耶識と元型とを同一視した場合、如来への道は、文字情報から神話的な要素をいかに多く吸収するかがポイントとなろう。ここまで深く掘ると、神仏混合の思想を推進した藤原氏の思想は、唯識派やシュンペーター学派、さらにはユング派や儒家の思想からすると正しくなる。


今回はここで筆を置く。


次稿に期待されたい。