唯識について、吟味を続ける。


一般の読者には申し訳ないが、この連載はその道の関係者向けの意味合いを強くせざるを得ない。よって、一般向けの文章ではなくなってきている事をお許しいただきたい。


唯識であるが、これもまた問題は多くなってきている。しかし、解決に向けやっていくしかない。


そもそも唯識は中観派からスピンオフしたものである。さらに、中観派は小乗仏教からスピンオフしたものである。結果、心底の理解となると小乗仏教からのやり直しとなる。しかしながら、仏教会は急いでいるようなので、このあたりのことは後回しにする。


先に、私が気になった事を吟味していく事により、1,300年前の心理学を現代版へ変換していく作業、すなわち、すり合わせの作業を行っていく。


私は唯識に限らず、空の世界も肯定的である。これは深層心理学者の立場としては当たり前のことである。空における前五識と第6意識を否定していては、深層心理学者として成り立たない。


中観派、日本では三論宗が中心となるが、空の理論の開発により意識と無意識とが分離された事は非常に大きい。この理論自体はインドのものであるが、物事には両端があり、その両端における中間に意味をもたせる中道の思想、つまり、空によって意識と無意識、仏教では意識と前五識との分離に到達したことは、奇跡としかいいようがない。


科学が発展した近代において、前五識が無意識であることは常識であるが、理論だけでそこまで到達する境地は素晴らしいとしかいいようがない。また、それを移入し、理解しようとした日本人もまたチャレンジャーである。この理論を学習する事ほどの苦しみはなかろう。いくら1,300年前とはいえ、耐え難い苦しみがあったはずである。


そうする内に唯識の息吹が入ってくる。


唯識であるが、唯識派としての特徴は中観派の思想をそのまま受け継いだ事である。新たな派閥として組み直した訳ではなく、空の理論が前提となりながら、それをさらに発展させた事が特徴である。よって、唯識を理解するには、基本的に空の理論をマスターしておかなければならない。末那識と阿頼耶識のみを理解しただけでは話にならない。


*構造1


4:意識

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3:前五識

2:末那識

1:阿頼耶識


深層心理学的な区分では、唯識は上記の構造となる。しかし、伝統的な唯識派での区分は異なる。


*構造2


1:意識(2:前五識)

2:前五識

ーーーーーーーー

3:末那識

4:阿頼耶識


右のような区分である。意識に平行して前五識を括弧書きしているのは、学者によっては意識と前五識とが並行であると論じる場合があるからである。


さらに、深層心理学版と伝統的な唯識派では心の区分における順位が異なる。


ここで仏教版の唯識と深層心理学版の唯識とに分離され、これが対立する。ではどちらを支持していくかが問題となる。


先ず、上から下というのは何とも日本的な発想である。外から内に向かうベクトルは内向的な性格を表す。これが日本的仏教の特徴でもある。


インドで開発された唯識、さらには中観は、実はこれとは逆の思想である。これが中国に伝来したのにもそれなりの理由があるが、つまり、テーマは内から外である。よって、深層心理学版が本来である。


この対立を解くところから始めなければならない。


ここから面白くなるが、移入された仏教とはつまり、外国製である。しかも外向的な性格の国で開発された宗教は外向的な性格の人間用に作られる。インドも中国も外向的な性格な人が多数の国である。よって、中国で仏教が一時的にも流行したのは不思議ではない。


では日本ではどうかといえば、性格が逆であるので、外向きの教義を内向きに使うようになる。これが日本における仏教の始まりである。


本来の仏教は退行することにより前進する事を目的とする。日本人の多くはそもそも内向きであるゆえ、退行を促進させる必要はない。しかし、禅などでも理解できようが、内向きの人がより内に入っていく修行を行うようになる。逆にこれが日本のオリジナルである。内向きの人が窮極の内向きになるための修行を行う事になる。


ではこれが間違っているのかといえば、深層心理学、とりわけユング派からすると大間違いとなる。


ここからも理解できるように、ユング派心理学を日本に持ち帰った河合隼雄博士は、この点で非常に思い悩むのである。


日本で仏教をやることの真の難しさはここにある。仏教典と日本人の性格とは、実は水と油である。しかしこれを何とかするところに宗教的意味があると思う。否、そうでなければ宗教ではない。


異質なものの組み合わせこそ「奇跡」が起こるのである。当時の朝廷や僧侶がここまで考えていたかは不明であるが、現代に生きる我々はこれまでの研究業績を動員し、伝統を守りながらも新しいものへと発展させなければならない。逆にチャンスだと捉えていかなければならない。


例えば、内向きの人が窮極の内向きになると人生は破滅するのかといえば、そうならないことは既に立証されている。


その奇跡を達成したのが空海である。外向きの教義を内向きに使った場合、一体の如来を1,464体の仏像へと分割することに成功した。空海が奇跡の人である理由の大きな一つとして、本来の仏教を間違った使い方をすることにより、大成功した事である。否、異質なものを結びつけた結果としての大成功といえよう。


神話や昔話、空海の成功事例からも理解できるように、異質なものを結びつける事が成功の法則となっている。我々もこの手を使うしか他ないであろう。


ここで空海の成功事例を引き継ぐのもいいが、日本人の多くにとって、退行はお家芸である。よって、内に入っていく工程の必用はない。逆に進行を促進させる方法を仏教から見つけ出す必要がある。つまり、阿頼耶識から意識に向かう「構造1」を支持する必要がある。


仏教の経典がなぜあれほど難しいかといえば、外向的な人が退行している時に書くからである。外向きの人が内向きになる時、悪の問題に接近するため、話が難しくなる。そして退行とは、阿頼耶識が意識に向かうことであり、意識が阿頼耶識に向かう様ではない。


しかし、日本人はそもそもその世界の住民である。よって、退行の工程を省く必要がある。そして逆に、前進を促進させる仕組みが必要となる。その仕組を作っていくのが新しい仏教の仕事であり、宗教の脱成熟化である。結論を先取りすると、経典の単純化である。


難しくすることで退行が発生する事は既に明らかとなっている。この逆の作業を行うと、当然のことながら前進する。日本人が漫画好きな理由はここにある。


仏教という日本人にとって異質なものが結びつき、現代において再び奇跡を起こすことを目指し、進めていきたい。


今回はここで筆を置くが、私の唯識論はまだ始まったばかりである。この先は長いと思うが、気長にお付き合いいただきたい。