猫の恩返しの吟味を行う。
猫については本当に不思議で、明治から団塊の世代までの人にとって、あまりいい印象の人は少ないと思われる。
明治生まれの人からヒアリングをしたことがあるのか?との疑問があろうが、私は団塊ジュニア世代なので、幼少期においてはまだ明治生まれの人は健在であった。しかしながら、ヒアリングをしたわけではなく、猫が嫌いな明治、大正、昭和における団塊の世代が私の身の回りには多かったのである。
理由であるが、食べ物を横取りされる事である。
昔の住宅にはエアコンがない。よって、夏場は窓を開ける。窓どころか、玄関の扉も開け、風を通すことにより家の全体を冷やしていたのである。そこに侵入する猫という構図である。
団塊ジュニア世代からは猫を飼う人が増えてきた。それを嫌う曾祖父母や祖父母との家庭内での対立が昭和40年代から50年代にかけ、家庭内で勃発する。
正確には団塊の世代は団塊ジュニア世代の声に押され、自分達の子供のためにと思い飼い始める立場である。この微妙な状況を私は体験してきているので、猫信仰となると、犬信仰と絶対的な対立を生む、宗教闘争的な様相をも想定できるものとの認識である。
犬と猫でもこれほどの対立がある中、仏教とその他の個人レベルの信仰との対立は壮絶なるものがある。この壮絶なる対立が奈良時代に確立していた事を理解されたい。
このような日本における猫の歴史を踏まえ、さらに、仏教との相性も非常に悪い猫が寺の僧侶と結びつく時、結合の神秘が達成される。これが猫の恩返しという昔話である。
いつものように起承転結の基準で切っていくと、この物語では猫の生誕譚は省かれており、老賢者と成猫がどのような状況であったかを詳細に述べている。この点からすると、文章全体の流れのバランスはとれているといえる。
これが転じて奇跡の部分へ移っていくが、ここは史的展開がしっかりとしている分、読みやすい。よって、奇跡的な出来事が奇跡的と思えない展開となっている。
小学校や中学校における国語の作文の採点としては100点であるが、芸術や表現活動という点からすると不合格となる。つまり、「ひねり」に不足しているのである。音楽でいうところの「転調の失敗」に該当する。
転調も様々であるが、転調はやはり聴き手に衝撃を与える方法である。よって、衝撃を与えられない転調では失敗となる。
ではビートルズによる転調の方法はどうかといえば、ビートルズの場合、転調している事に気づかない事が多い。つまり、聴き手に衝撃を与えていない事になる。しかし、実は転調していることに気づいた時、全身が砕け散るような衝撃となる。よって100点なのである。
ここで本文に戻るが、貧困で苦労する僧侶は飼い猫からある情報を入手する。その情報を元に僧侶が活躍する話となっている。
ここまでを総合すると、君臣の位置関係にねじれはない。陽は陽位にあり、陰は陰位にある。さらに、共に中正でありながら応じている。
ある時、猫の情報通りに村の有力者の娘さんが亡くなる。棺に入れた遺体を大地に埋葬する際、何故かその棺が宙に浮く。そこで貧困の僧侶を呼び、無事に棺を埋葬することができたとの事である。
先ず、遺体の処理にはいくつかあるが、この場合、遺体を大地に戻す方法であった。これまでの物語での奇跡は大地から出現していたが、今回はこの逆となる。しかし問題の所在はここではない。つまり、「女性」の遺体が納められている棺が大地から「離れた」事である。
これこそ大地から女性が切り離さられる現象に他ならず、穀類起源神話に通じる。結果、僧侶の生活は「安定」する。
奇跡は起きながらも、天皇をも巻き込み日本全体を揺るがす大物にはならなかった事が特徴である。
これはなぜかといえば、猫が戻ってきた事である。つまり、陰と陽との関係に変化はなく、そこでストップしている事が原因となる。しかしながら、陰である猫がこのまま戻ってこなければ、僧侶は寂しさのあまり不幸な人生を歩んだであろうし、建て替えた寺も再び荒れたであろう。
では、これが猫であったからこのような結果となったかといえば、そうではない。犬や竹でも同じことである。この物語の筋書きであれば、信仰の対象が大仏であっても世間を震撼させる事は不可能である。
では、世間を震撼させる方法は何かといえば、それは「ひねり」となろう。
次回は鶴を題材とする。期待されたい。