信仰から宗教への変遷を昔話や神話から読み込んでいる。現在は犬信仰を事例に吟味している。


前稿において花咲か爺さんにおける吟味の大半を終えた。この話の結論として、最後は殿様が出てきて老賢者の暮らしは良くなったとの結論となる。


この老賢者の成功こそ、犬の支配下に入った戦術に成功した事例となる。これが犬信仰へとつながるのであるが、昔の犬はかなりの能力を兼ね備えていたゆえに、人間を従えるほどの力量があったのかとの疑問も残る。かぐや姫でもそうであるが、最後に天皇や殿様が現れるるほどの盛況ぶりである。


これを猫と比較してみると、昔話の猫は化けて人を殺そうとしたり、いたずらをする猫の話も多数である。勿論、猫を信仰する話も存在する。しかし、ここが犬と猫との決定的な違いであろう。


かぐや姫でも述べたが、文学が出来上がった背景に宗教への圧力が考えられる。しかし、信仰に対する仕上げとして宗教にまで格上げしたい人も沢山いたのも事実であろう。その意味で、日本初の文学であるかぐや姫が信仰から湧き出ていることを知ると、心に響くものがある。


犬信仰もこれと同じで、これゆえに子供から高齢者までを対象とする文学、これが花咲か爺さんとなっているが、ひねくれ者の生き様が詳細に記述されている。


人間は異質なものの組み合わせについて、実は悩んでいるのである。例えば竹と人間、そして犬と人間である。これが実際の人間同士の付き合いとなると、生殖機能を基準とすると、男性は女性と付き合うことになる。これがストレートであると、男性は男性と一緒になることが当然であろう。しかしながら、それでは子孫を残すことができなくなる。


最近では代理出産が話題となっているが、では、代理で産む人はねじれの中でもがき苦しむ事になる。本来は当事者が苦しむべき苦痛を他人に任せることになる。それでもあなたは代理出産で子供を持つのですか?との信仰や宗教的問題が発生する。この点を理解しなければならない。


地球で生きていく事は簡単なようで難しい。ねじれ、ストレート、これら両方に答えはない。では何が正解かといえば、「答えなどない苦しみ」を生きることである。だからこそ人間は犬の支配下になることができるのである。


現在では犬が信仰の対象となっているので、犬が軸となっているが、投影の対象が人間になると、これはキリスト教になる。


あぁ、イエス様!男性の私はイエス様を愛してしまった!この熱い思いをどうすればいいのか!


するとイエスは答えた。


女性を愛しなさい。


男性は質問を続ける。


イエス様、私は男性です。異質なものと結合することは不可能だ!


するとイエス答えた。


その前に、死者と会話している君は奇跡の人ではないのか?


男性は答えた。


私には聞こえるのです。死者の声が!


イエスは答えた。


あの世とこの世を繋いでいるそなたは、既に結合の神秘に触れている。さあ、その死者と結合するのだ!


男性は答えた。


わかりました。では、私の心の中で死んでいるアニマと結合し、「ひねくれ者」が住む現世へ旅立ちます!


イエスは答えた。


ひねくれ者よ、幸あれ!


このイエスと男性との会話は全てフィクションであり、現存する旧約聖書や新約聖書とは全く関係ない事を申し添えておく。


とはいえ、これが一神教の経典の原点である。ちなみに、イエスの部分を犬に変えると、犬教の経典となる。


一神教(ここでは一対象信仰を含む。例えば犬信仰)は信仰の対象が一つしかないゆえ、どうしてもステレオタイプな議論となってしまう。白か黒かの選択となるが、窮極の選択となると選択できないゆえ、両性具有性という考え方が導入される。男女が同時に存在することにより、処女で子供を産むというおかしなことになる。


なんで切り離さないのか?との問いが残るが、これが約2,000年前のキリスト教の心の動きである。


これに対し中国の宗教である儒教は、あらかじめ男女が存在している。これが2,500年前の話であり、思想的には儒教の方が進んでいた事になる。いわんや、易経の歴史は5,000年前との推定があり、その頃より高度に分化していたといえよう。


飛鳥時代から奈良時代にかけ、朝廷は信仰の対象を一つになることを嫌ったと思われる。仏教や儒教の伝来とともにキリスト教も日本に入ってきていたと推定可能であるが、朝廷は一点集中型の信仰に疑問を持っていた可能性がある。民間人や知識人による個別の、しかもそれは一点集中型の信仰が日本の発展を阻害する可能性を感じ、仏教を移入したのではなかろうか。


日本に仏教を移入する時、朝廷は日本用に改造することを条件としていたことは、史実から明らかとなっている。この事からしても、当時において分離の技術が高度であった仏教を布教することにより、科学的な技術を獲得しようとしたとすると、南都七大寺における経営戦略と統合化することが可能となる。


ところが、各仏教典には犬信仰とほぼ同じことが書いてあり、これがいくつもの宗派に分化していたとの話に留まってしまう。結果、分離の技術の獲得には役立つが、各派における基本的な思想は犬信仰とほぼ同じであることに気づき、仏教は学問化する。これが第三者からすると宗教への無関心に見えてしまうのであろう。


これで日本における宗教の歴史や問題点の全体像が明らかとなったはずである。よって、この連載自体のまとめを行っていく段階となる。


しかしながら、犬信仰があれば猫信仰、さらに鶴信仰もあるのではなかろうかとの声がある。これについては重複するが、猫であろうが鶴であろうが、それへの信仰はワンパターンである事を述べておく。


私としてはこれ以上の事例研究の意味はないと思うが、リクエストが多い場合、次稿から「猫信仰」をやってみようと思う。


明日の原稿の内容については読者次第である。


読者による意思決定をお持ち申し上げる。