この下巻も終わりを迎えようとしている。


これまで吟味してきたように、飛鳥時代から伝来した仏教は奈良時代において大いに花開く。日本の歴史の中で最も仏教が力を持った時代であり、仏教の繁栄と共に日本の経済も発展した時代であった。


ここからすると、現代人が思う仏教とはかなりかけ離れた仏教の姿があるはずである。仏教というと信仰するものであり、宗教としての認識が強いが、現代の日本人が思う儒教のように、この当時における仏教は宗教というよりも、思想面で大きな役割を果たすことになる。


仏教が伝来したことにより、竪穴式住居から離脱できたわけであり、興福寺があったから奈良公園が存在するに至る。


西大寺は国家鎮護のために建立されたが、実際には国家が落ち着いてから建設が始まる。ここからしても、孝謙天皇(称徳天皇)の代において、既に仏教から宗教の匂いはしないことを知る。読者諸彦には、この点を是非とも気づいて欲しいものである。


仏教を日本に移入させる時、その時の条件は日本的にする事であった。そもそもそのような条件があったわけであるが、そのような規定を盛り込まなくても、日本人として初めて触れる仏教へは、学習と研究という客観性が必要となってくる。客観とは自分と対象とを切り離す作業のことである。結果として、学問としての性質が強くなることは必至であり、その視座は自ずと日本的となる。逆にこれこそが宗教の力であると思われる。


当時のエリート層が仏教を学ぶことによりどうなったかといえば、主体と客体という2者ができた事である。これだけで十分に日本的な考え方に接近するものである。このような考え方が出来上がった事が素晴らしいのである。


ここで天皇家はそれ以外の人と分離させることになる。そこに藤原氏が加わることにより2者となる。ところが、外戚関係が出来上がると、ここに3者が加わる。こうなると問題は非常に複雑化する。藤原氏的には話の単純化を狙ったのであろうが、これについては逆効果となる。ここで東大寺、興福寺、西大寺という関係が出来上がる。


陰陽の関係からすると許容範囲は2者までとなる。よって一つは関係から外れることになる。さて、どうするかである。


第3者は外れる事が定めとなるが、これを河合隼雄博士は中空構造と定義した。


しかしながら、実際には陰陽の関係は変易とされており、よって、外れていても復活する可能性は十分にある。それが興福寺である。


ここで重要なのは、統合化に成功したイノベーターはそれに成功した後、速やかに退場する事である。なぜなら、いつまでも束ね役をやっていると、次なる分離ができなくなるからである。細胞分裂と同じく、これら3つの寺院も分化と統合を繰り返さなくてはいけない。よって統合の後には、後の分裂に備え、その任務にあった人物は速やかに退場する事が求められる。


称徳天皇の最期の歴史が曖昧なまま今日まで続いているのは、その退場劇があまりにも美しいものであったからであろう。通常の考えであれば、成功すればその状態を永遠に保つように事を運ぶ。称徳天皇の周辺としてはこの成功を永遠のものにとの進言を行ったであろうが、天才肌の称徳天皇はそれを拒んだのではなかろうかと推測している。


自身がリーダーシップを取り続けることはつまり、統合化を維持することになる。これでは近い将来に失敗する事は目に見えている。よって、称徳天皇は西大寺が未完成な状態で崩御したものと推測されうる。


こうなると、周りの理解があれば、時として東大寺が統合役に回るなども可能であろう。これら3つの寺院は多くの他の寺院をスピンオフさせながら、日本の中心であり続けた可能性がある。


ところが、人間の欲はそれを拒むのである。


ここまで話をもってくると、日本的経営なるものが見えてくる。つまり、2者+1者という構図である。トライアングルではないところが面白いのである。


例えば、旧松下電器における事業部制はこの例に入ってくるのではなかろうか。社長と事業部とは直結でありながら、互いは個性化した存在である。そして、束ね役は松下幸之助が兼任する。各事業部を歩き回っていたことは有名な話である。松下幸之助がまとめ役を兼任することにより、束ねすぎない緩い組織が出来上がるのである。


これは、朝廷の直下に南都七大寺が存在する組織体制と酷似している。しかし、それぞれの主張は現代人よりもはるかに明確であった奈良時代、西大寺という束ね役が別に必要であったといえよう。


今回はここで筆を置く。


次稿に期待されたい。