西大寺と孝謙天皇(称徳天皇)について、異常なほど加熱しているようである。しかし、もう少し落ち着いて物事を考えていく必要もある。


最近では改革や革新という言葉をよく耳にするが、その必要性を感じて言っているのか、また、言葉の響きに憧れているだけなのか不明な点が多い。


昔の偉人が行った物語を読むのであれば、これを参考に、実行に移してほしいものである。


今回は西大寺を扱う。


西大寺についてはこれまで何度も吟味しているので改めて振り返る必要はないかと思うが、孝謙天皇(称徳天皇)が国家鎮護のために作った官寺である。東大寺は彼女の父親の聖武天皇が造った事から、東大寺に対する西大寺との認識がある。


さて、西大寺であるが、建立に至るまでのプロセスについても、これまで何度も吟味しているので割愛する。しかし、孝謙天皇(称徳天皇)が西大寺の建立にあたり、どのような心構えであったかを見てみる。


『今昔物語集』の巻十一第十八話にそれが見える。要約してみると、「様々な知識を得た。その知識を実務に活かす道場を作りたい」との言がある。つまり、知識だけではなく、それを実務に活かすことが重要だとの思想を見るに至る。ここが非常に重要である。


この思想はいわゆる「統合」を如実に表している。知識だけでも、実務だけであっても話は前に進まず、これらが統合した先に答えがあるとの思想である。


ここで東大寺と興福寺の関係を見てみると、知識を最優先し、命令ばかりをする東大寺。卓越した知識はあるものの、経済の実行部隊として活動するばかりの興福寺という対立が恵美押勝の乱を発生させ、朝廷が完全に分断する結果に至る。これを指揮していたのが孝謙天皇(称徳天皇)である。いわんや彼女の祖父は藤原不比等であり、連立政権という政治形態において、なぜ分離したままの連立政権なのか、これは非常に疑問であったに違いない。


ところが、大和国における朝廷の歴史を振り返ってみると、天皇家が蘇我氏から藤原氏のおかげで救われた過去がある。つまり、借りがある。しかし、最初は天皇家と藤原氏に血縁関係はなく、他人である。天皇家としては借りがあるので接近を許すが、血縁関係はないゆえ、分離したまま事は進んでいく。


このような歴史がある中で、両者の主張として、個別の議論としては間違ってはいない。支援する側と支援される側という立場があり、両者はこの立場に沿って意見を主張し合う。よって、それぞれの立場においては正解を言っている。ところが、この陰陽の対立は彼らの領域でしか通用しないことは、恵美押勝の乱において理解できるであろう。


この間に立っていたのが孝謙天皇(称徳天皇)である。彼女は同時に、両家の血も受け継いでいる。その意味で、両者の主張そのものは、個別に認めていたと思われる。ところが、反乱が起きるとなると、やはり分裂している意見を一つにまとめ、統合する必要があると感じたのではなかろうかと思われる。これが道鏡と共に密教に導かれた事実からすると、この可能性は濃厚である。


かつて、フロイトとアドラーが対立した時、ユングはどちらの意見も間違ってはいないとし、ユングとしては彼らの意見を統合させ、例えば、タイプ論の理論の骨格はそのような背景からのものである。


現在においての卑近な例では、電子決済の統合化であろう。あれこれたくさんの決済方法があり、それぞれは決して間違ってはいない。しかし、これほどまでに手段が乱立してくると、やはりユーザーとしては「統合してくれ!」となる。この原理である。


孝謙天皇(称徳天皇)が西大寺を建立しようとするとき、藤原氏は既に鎮圧されているので、大和国の最高意思決定者は称徳天皇となる。さて、ここから彼女の快進撃が始まる。


まず、国家鎮護のための官寺は、既に父親が建立させた東大寺がある。よって、国家鎮護のみが目的であれば西大寺の建立の必要性はない。ではなぜ西大寺を建立させたかといえば、最高意思決定者として、東大寺を従えるという意思の表れである。


最高意思決定者が西大寺の主となれば、東大寺は臣下となる。陽としての東大寺、陰としての西大寺となる。この逆説的な組み合わせは最高のものとなる。こうして、西大寺と東大寺が一緒になることにより、奈良仏教の統一化が実現する。なぜなら、東大寺では法相宗(興福寺)も研究対象だったからである。


ちなみに、当時の東大寺では宗派を統合しての研究は行われておらず、平安時代には真言宗まで含めるようになる。真言宗が他の宗派を取り込むのなら理解できるが、その逆となっているので、ここからして、東大寺における仏教の研究は宗派を超えて行われるものではなく、各派を個別に研究していたことを理解できよう。


このように、田中的南都三大寺の構図では、東大寺を取り込むことにより、興福寺も自動的に取り込むことは理論上、可能となる。ここを称徳天皇は狙ったと思われる。


称徳天皇における陰陽の戦術はこれだけにとどまらず、西大寺の建立に関与する人事にも影響する。それが道鏡であることは言うまでもない。



このようにして西大寺は765年に着工する。完成は780年であるが、称徳天皇は770年に崩御している。つまり、完成を見ずに都は長岡京に移される。


西大寺の着工から長岡京への遷都、その10年後の平安京への遷都までの歴史は、残念ながら空白となっている。よって、詳しいことはわからないが、なぜわからないかといえば、それほど激動の時代であったからである。


西大寺の着工から称徳天皇の崩御までを予想してみると、これはあくまでも推測の域は出ないが、藤原氏を鎮圧した状態での東大寺との統合化は成功し、経済状況は以前よりも格段に上がったのではなかろうかと思われる。つまり、脱成熟化が達成されたと予測している。


しかしながら、この当時、工業排水はそのまま河川に垂れ流していたため、大きな公害が発生していた事が、近年の学会では通説になりつつある。これが遷都につながったとする説が優勢である。


ここからすると、称徳天皇の政策は功を奏し、経済や文化面では大きな功績を残し、奈良仏教にイノベーションをもたらした可能性は非常に高い。


しかし、ここは奈良時代。公害対策は不十分である。この大きな公害が起こったことにより称徳天皇の成功を推測することは可能であるが、その反面、皮肉にもこの成功が遷都を決定させてしまったと推測されうる。


このように、陰陽の対立をうまく操りながら、奈良仏教の統一に貢献することにより、奈良時代の末期において、新しい奈良を作り出した功績は非常に大きいと思われる。


平安時代に入ると藤原氏は再び勢力を拡大させ登場人物も多くなってくる。しかし、天皇が自ら指揮し、脱成熟化を達成した例は、後にも先にも例はない。称徳天皇の卓越した知識と経験、そして仏教の底力も見ることができる。


アバナシーが提唱して以来、世界中の多くの経済・経営学者を悩ませている脱成熟化理論であるが、答えは称徳天皇が持っていたとの発見に至る。


勿論、世界中の歴史を探ればいろいろと出てくるであろうが、脱成熟化についての解決方を国史的な観点から発表されたものはない。よって、この連載が世界初となる。


読者が孝謙天皇(称徳天皇)における西大寺の建立に着目するのであれば、是非とも、爆発的な思想、そして情熱を持ってほしいと思う。


次稿に期待されたい。