田中的南都三大寺において、今回は東大寺について吟味していく。


奈良時代においては、天皇家と藤原氏による連立政権が誕生し、朝廷はこれら二系統が統合した形式で意思決定がなされるようになる。


これは朝廷の話であるが、両家における意思の表れは寺院において代替されるようになる。つまり、東大寺と興福寺という構図である。


これらの寺院では宗派が異なるだけではなく、東大寺にして学問寺、興福寺にしてプラントという、とんでもなく異なった方向へと進むことになった。両家は政治的には一心同体と思われながらも、腹の底では別の事を考えるようになる。この構図を私は今西錦司博士による「棲み分け論」になぞらえ、ポーターにおける「差別化戦略」と位置づけた。


ここからすると、東大寺と興福寺は両家における立場の違いを明確化する機能を有していた事になる。ここがまた興味深い。


奈良時代には朝廷があったにもかかわらず、それとは別に両家における個別の意思決定機関が存在したことになり、当時の国民からすると、指示系統が複数存在していた事になる。


よって、教育機関も天皇家の直轄事業と朝廷によるものとに二分されるようになる。それにしても、天皇家はあくまでも教育に情熱を注ぐことになるが、知恵を授かりたいという思いが教育事業へと集中化するのであろう。


ちなみに、朝廷としては平城京内に大学を設置していた。



本件は高校の日本史の授業で扱うはずである。


ここでは儒教を扱っていた事からも理解できるように、大陸から入ってくるあらゆる宗教を日本に取り入れようとしたが、宗教を移入するという自体に至り、結局は全ての宗教において神秘性は取り除かれ、哲学や化学の方向へと向うことになったことはここからも理解できよう。


この大学には空海も通ったことがある。



奈良文化財研究所と大安寺の文章を突合させると、やはり、奈良時代の末期から平安時代にかけて大学が機能し始めたことを知ることができる。


その中でも天皇家としては神秘性に溢れている仏教に興味を示すようになり、天皇家としては儒教よりも仏教を支持する事への意思の表れを東大寺の建立で示すことになる。歴史の教科書的には国家鎮護が大義名分となるが、換言すると、国家鎮護のための仏教という意思決定となる。


よって、朝廷とも藤原氏とも異なる独自の差別化を行う事になる。ここからすると、奈良時代の天皇家は、天皇家という個性化した存在であることを示さなければならない、非常に特別な存在であったと伺える。朝廷とも「別です!」となると、これは個別化を示すことになり、外国からの支援が大きかったのではなかろうかとの仮説を持つに至る。


この話はここまでとして、東大寺という箱としての戦略であるが、ここでは主に教育を行うためのものとなる。よって、教育を行いながらも荘園の運営に乗り出す。つまり、教育に専念するための多角化、それが老賢者により行われていることから、その技術の範囲内で横に広くとの事で、水平的多角化と診断した。


東大寺の建立は経済に与えるインパクトは非常に大きなものであり、とりわけ墨を量産しなければならない状況となるほどであった。こうなると、墨の原料を取るために農耕や酪農における改革も進むことになる。


とりわけ東大寺の建立時には廉価版の墨を開発したことによる破壊的イノベーションにより、生産のペースを上げなければならなくなった。よって、流通も大きく改善されたはずである。この実務を担ったのは興福寺であるが、源流を作ったのは東大寺であるという自信の表れであろうか、東大寺はより教育に力を入れていくようになる。


つまり、天皇家としては教育と仏教の範囲でしか多角化を行うことはないとする差別化戦略を、東大寺を通じ意思表示を行っていたことになる。


何があっても動じない天皇家における意思決定に、その重みを感じざるを得ない。ここに対立していこうとしていた藤原氏にも感服する。この陰陽の対立がなければ日本は飛鳥時代で終わっていたと思われる。


しかし、この対立が後に革命をもたらそうとする。中国における易姓革命が発生する原理と同じである。


易経における坤の卦の文言伝に、「臣下が君主を殺し、子供が父親を殺すことは、昨日今日に始まることではない」とある。これは、常に陰陽の関係がバランスよく保たれる訳では無い事を示唆する言葉である。


最高にして最強にも思われる筋書きも、いつかは終りが来る。その時を迎え撃つのは、一人の女性であったことは周知の通りである。


次稿に期待されたい。