今回から下巻に入る。


下巻となるのでこれが最終となる。よって、まとめを行っていくことになる。


中巻において南都七大寺における事例研究を行った。これにより読者に向けて伝えるべき範囲は定まったとはいえ、いまだその範囲は広い。なぜなら、対象が奈良時代の寺院だからである。


これまでの吟味でも理解できるように、奈良時代の寺院は産業と直接的に結びついており、否、寺院によっては産業を勃興させた事例もあり、これ故、現代的な意味での営利企業と公企業とが未分化なまま発展したのが特徴となっている。ここに仏教が関わってくるので、現代人的には難解となろう。


この難解なところを解決していくのが私の任務であるが、これがまた肩の荷が重い。


ここで南都七大寺の再編を思い出していただきたい。私なりの奈良の三大寺は東大寺、興福寺、西大寺となる。今後はこの三大寺がまとめの中心となるが、残りの四大寺も奈良時代を支える重要な寺院となるので、継続して注目してほしい。


三大寺と四大寺の区分の根拠であるが、これは革新派とそれ以外という流れである。三大寺は勿論、革新派に入る。


東大寺は学問寺として、当時では最新の教育体制を敷く。モデルは恐らく古代中国の稷下の学であろう。様々な対立する宗教をあえて投入し、仏教の総合大学を目指した。


興福寺は奈良墨を産業に格上げさせ、酒を日本で初めて作り、さらにはこれも産業にまで引き上げた。その他、製薬と芸能もそうである。


西大寺は末期の奈良時代を統一しようとした、いわゆるイノベーターであった。その意味で、西大寺は現代で意味するところのベンチャー企業であるが、建立時から規模は東大寺級であり、思想面のみがベンチャー企業と同等であった特殊な寺院である。


三大寺の中でも統合化をメインに行うことにより、現代的な意味での持株会社としての存在感を出そうとした頭脳派の寺院である。とりわけ直接的に産業へ介入しようとしたわけではない。よって、厳密には3つに区分されようが、革新派との意味では東大寺と興福寺のグループに入れることで、西大寺が理解しやすくなる。


結論として、南都七大寺については革新派と保守派の2派に分け、革新派については東大寺型、興福寺型、西大寺型の3タイプに類型化(個性化)させた。


仏教は飛鳥時代に伝来している。伝来ということは、仏教は日本のオリジナルではない。この事を理解することは大変重要なことである。なぜなら、土着信仰とは異なり、仏教を勉強するところから始めなければならないからである。これが何を意味するかであるが、つまり、宗教を勉強する事になる。もう少し深くすると、仏教を勉強することにより、宗教性は蒸発する事になる。日本の仏教にはこのような根本的な「ねじれ」がある。


仏教とは本来は宗教であり、仏像に対し祈りを捧げ、信仰するものである。しかし、当時の日本には仏教はなく、それどころか外国から移入してきたので、先ずは仏教に対する取説を作るところから始めなければならなかった。祈り方すら分からない状態において、仏教としての宗教性を維持することは困難である。ここがポイントである。


取説を作るには漢文の勉強から始まり、仏教典を翻訳しなければならない。その経典を翻訳するだけでは意味はなく、取説とするには書き残さなければならない。


こうなってくるとおわかりだと思うが、日本の仏教にはそもそも宗教性はほとんどなく、仏教を学習する過程において、哲学的な事や化学的な事が理解できてきだす事の方が大きかった。つまり、この段階で宗教性との分離が発生している。


しかし、その成果こそが「仏様のおかげや!」となり、ここで祈りと学問とが再結合することにより、「仏教は凄いぜ!」という結末を生むのである。これが日本の仏教の始まりである。


このように、当時の僧侶は大変な任務を負うことになるので、僧侶となるにはそれなりの資格が必要とされるようになる(実際には私度僧への対策も含まれる)。そこで受戒を実施する事ができる人物として中国から招聘されたのが鑑真である。薬師寺の隣にある唐招提寺の主である。


このように、本物の僧侶へと導かれた僧侶たちであるが、例えば、興福寺へ入門すると、墨を作ったり酒を作ったりし、プラントの工員として従事することになる。勿論、唯識に対する修行も行うが、寺院における戦略から見るに、仏教はもはや宗教性から遠く乖離し、少なくとも興福寺においては産業の勃興に役立てている事になる。


仏教が様々な問題解決に役立つ事が理解できると、経典の量産化を行わなければならない。これが写経へと導かれる。ここで写経生(師)が大活躍する。


ヨーロッパではグーテンベルクの活版印刷技術が宗教革命を手助けしたが、日本では宗教が先行して発達する事になる。これが産業を勃興させ、さらに支える役割を果たすという逆転現象が起きている。


こうしてみると、日本の初期の産業革命は仏教と密接であることを理解できよう。仏教が外国からの移入であった事が功を奏し、こ時点において仏教における宗教性のほとんどは飛んでしまった。しかし皮肉にも、これが日本における初期の産業を勃興させるに至ったことは大きいと思われる。


このような経緯から、日本人が「宗教とはなんだろう?」との永遠のテーマを抱えることは自然な事であろう。この事例からすれば、このテーマに答えを出していく必要はない。むしろ、永遠のテーマである事に意味があると思われる。


以上を下巻の序言とし、今後は再編後の三大寺における事例を中心に、日本的経営についての仮説を導き出すことを主たる目的とする。


次稿に期待されたい。