奈良時代における南都七大寺の事例の吟味は終わり、まとめに入っている。ここで伝統的な研究の方法にて、例えば、法相宗の宗派がいくつあったかなどを集計してみたいものであるが、誠に遺憾ながら、それは不可能であることは言うまでもない。


よって、まとめといっても西洋的な学問の方法にて総合することは不可能であることが南都七大寺における事例研究にて理解できよう。さて、これが日本である。


日本の姿がおおよそ見え始めるのは飛鳥時代に入った頃からである。その前の時代、つまり古墳時代までは古代とされていることからも明らかのように、よくわからない時代となる。


古墳にかんする調査はかなり進んでいると思われがちであるが、そうでもない。なぜなら、古墳内部の調査は許されない場合がほとんどだからである。


例えば、中国の歴史となれば孔子の生誕をもってゼロ地点とする明確な基準があるが、日本はアマテラスがツクヨミと別居するようになったあたりからが起点となる。よって、時期については曖昧なままとなっている。


西洋や中国では性格の影響から、物事を一点に集中する傾向が強いため、権力をも一点に集中される傾向が強い。中国ではこれが易姓革命を頻発させることになる。イギリスではピューリタン革命を発端に、最終的に議院内閣制を作り上げる。


議院内閣制といえば日本もそうである。しかしながら、奈良時代の寺院の運営から見る政治の方法では、日本の議院内閣制の原点ともいうべきものを感じる。そこに藤原氏の存在がある。ここから権力者の分離が宗教を通じて発生する。ピューリタン革命も宗教が絡むが、日本ほど強く関わることはない。ここがまた面白いところである。


小さなまとめを行うと、日本とイギリスは国も歴史も異なるが、結局の所、議院内閣制に落ち着いていることである。なんと不思議な現象であるかと思う。これは日本がイギリスの政治を真似したというより、日本の歴史からくるオリジナルの政治形態であることを、南都七大寺における事例研究から理解していくことが可能となる。


小さな結論として、日本の議院内閣制は日本のオリジナルであり、なるべくしてこうなったという仮説を持っている。よって、イギリスの議院内閣制とは枝葉の部分で異なるのは当然の事である。しかし、距離にして約1万キロ離れた国と、偶然にも島国同士で同じ政治形態を採用している現実に、日本史のロマンを寄せていきたいと思う。


藤原氏がどのような家系であるかについては学校の教科書を参照されたいが、藤原氏の前に蘇我氏なる家系があり、大化の改新以降、藤原氏が朝廷に介入することになる。そこから先、約1,200年に渡り日本の政治の中枢に君臨したわけであるから、仲がいいのか悪いのかよくわからない両家(天皇家と藤原氏)の関係を見ることができる。喧嘩するほど仲が良いともいうが、約1,200年にわたる関係となると、一言で表現することは不可能である。


ここで南都七大寺における事例に戻りたい。先ず、南都七大寺における宗派に注目してみる。


例えば、東大寺は華厳宗を基礎とするが、華厳宗のみで終始することはない。東大寺では日本に入ってくるあらゆる仏教の教育に力を入れる学問寺でる。


さて、ここである。要するに「カオス」である。ヨーロッパにおけるキリスト教もいくつかの教派があるが、各教会では他の宗派を布教することはない。しかし、日本ではこれが行われていた事実がある。


法隆寺は基礎とする宗派を特定することができないまま歴史を刻み、最終的に独自の宗派を開くことにより解決している。大安寺も然り。三論宗から突如として真言宗へ移っている。


元興寺もまた興味深く、最初は三論宗と法相宗であるが途中で浄土宗に向かう時期がある。その後は衰退するとともに寺院は3つに分裂し、親元の宗派に切り替わる。


薬師寺は法相宗であるが、三論宗にも通じる寺院である。というより、薬はどうなっている!という意見もあろう。しかし、これが現実である。


一貫して一つの宗派を貫いているのは興福寺となる。しかし、藤原氏は春日大社も管理しており、さて、事情は複雑である。


このように、あまりにも自由すぎる宗教観があり、一つの寺院において様々な宗派が入り混じる、日本独特の状況を生み出す結果となる。よって、数値的な傾向を見るとなると、カオスな状態であるという数値的な結果となる。興福寺のみが唯一、宗派を貫徹しているが、その大元が神社も擁しているため、宗教という意味では何とも言い難い状況となっているのが奈良時代である。


ここで当時の興福寺を振り返ってみると、老賢者が支える事ができる範疇とはいえ、様々な事業を展開し、製墨、製薬、製酒などの量産体制の確立からすれば、それは今でいうところのプラントとなる。


ただし、芸能まで加えることにより、宗教的な部分を前面に出す展開となっている。


とはいえ、宗教の力においてプラント化した寺院がある一方で、宗教の力を科学へと向かわせようとする勢力とで二分されているところがまた興味深い。同じ仏教でもこれほどの違いが出てくる。ただし、二分といっても南都七大寺では興福寺のみがプラントを営むことになっており、アンバランスさが際立つ。


最終的にはこの状況を打破すべく西大寺が頭角を現すが、しかし、興福寺における寺院のプラント化という方向性(差別化)が示すものは、当時の朝廷を分断する思想であることを如実に示す実例である。


これが逆に権力の集中化を阻止しすることになる。最初から二分されているわけなので、当たり前の話である。ここでもし、南都七大寺の全てがプラントであったり、ないし学問寺であれば、日本はここで終わっていたであろう。


さて、この二分の法則が日本における議院内閣制に引き継がれるのは容易にイメージできるかと思う。当時の朝廷が最初から議院内閣制を目指してこのようにしたわけではなかろうが、日本独自のカオスな状況は結果的に、西洋における絶対王政的な政治を阻止する形となっている事を、南都七大寺における事例から読み取ることができよう。


ここからすると、当時における仏教は宗教ではあるものの、現実には文系と理系の学問が合体した教科書として扱われていたのではなかろうかとの結論に至る。


これゆえに、寺院の運営に影響を与え、それが結果的に政治に大きく作用すると思われる。


このような仮説を引き出し、中巻はここで終える。次回からは下巻とし、南都七大寺の事例研究から抽出されるうる結果から生じるであろう発見をまとめていく。


次巻に期待されたい。