南都七大寺の事例の吟味を続ける。


今回は元興寺である。


元興寺であるが、この寺院は関西人とそれ以外の地域で生まれ育った人々では、印象はかなり異なるかと思う。


関西で生まれ育った人々にとっての元興寺は寺院というより、仏教の資料館というイメージである。


もちろん、元興寺は寺院であるので、現地まで行けばイメージ通りの寺院である。しかし、その見た目とは裏腹に、奈良仏教の資料館のイメージ方が強いのが関西人的なイメージであろう。私も例外ではない。元興寺といえば、奈良仏教の「歴史資料館」とのイメージであり、元興寺へ行く事は奈良仏教の歴史を見に行くことを意味していた。





元興寺の歴史については公式サイトを参照されたい。


飛鳥時代に蘇我氏の氏寺としてが起源となる。しかし、都が平城京へ遷都すると、朝廷主導の官寺となり、学問寺へと変化を遂げる。


宗派もまた変遷しており、現在は真言律宗であるが、これは西大寺が起源の宗派となる。この変遷の歴史は不明な点が多い。


平城京に移設後の、いわゆる元興寺となった頃の宗派は法相宗と三論宗という、中観派と唯識派が並立する独特の体制であった。


この頃に活躍したのが法相宗の行基、三論宗の智光である。行基は東大寺の四聖であるが、元興寺にも縁が深い事で知られる。ここでバランスをとっているところもまた学問寺としての奥の深さを感じる。


このような歴史的背景があるゆえ、学問寺以上の事項は出てこない。しかしながら、奈良仏教における歴史的な資料の多さから、現在においても学問寺としての地位を揺るぎなくしている事が大きな特徴である。


公式サイトにも書かれているように、荘園の運営も行い、寺院の運営資金に充てていた事を確認することができる。


結論として、東大寺と同じ業務形態となり、戦略的には水平的多角化となる。


以上で終えてもいいが、奈良時代の寺院や僧侶がどのようなものであったのかを元興寺における有名な僧侶である智光と共に、タイムトラベルをしてみようと思う。


元興寺における智光といえば曼荼羅である。



とはいえ、この曼荼羅に至るプロセスにおいて行基と智光との関係が非常に深い事に注目せねばならない。


ここで智光の出生を見たいところであが、これは今昔物語に収録されている。今昔物語での智光は、前世の行基に仕える下童となっている。具体的に何をやっていたかといえば、庭に落ちている糞を始末する係であったとなっている。その頃の名前は真福田丸といった。


次に、古本説話集にも同じ名前で、しかもほぼ同じ内容で登場するが、この時は行基の屋敷の門番の息子として登場する。


これら二つの物語で共通するのは、智光が出家すること、行基は人間に化けて出てくる事である。何に化けるかといえば、若い娘に化けて出てくるのである。そして若い智充をハニートラップさせようとする、誠にトリックスター的な役割を果たす。


また、ハニートラップを仕掛ける行基の描写は、古本説話集に詳しい。


要は、智充には素質があることを見抜いていた行基は、彼が本当に仏道に入る覚悟があるのか、また、仏道において幸せな生活を送るためにはどうすればいいのかについて考えた結果、ハニートラップにかけるという、とんでもない手段で相手の心を探ろうとする。


最終的に両者とも奈良時代を代表する僧侶になるが、この物語では行基が若い美女に化けるという、神話の世界を描いている事に注目せねばならない。


また、智光に至っては未熟なアニマを醸成させ、一人の独立した男性として個性化していくプロセスが明確に描かれている。そしてその相手が行基という男性であることもまた特筆するべき事項であろう。


この物語を額面通りに受け取るのであれば、同性愛の物語となるが、ユング派心理学的には「両性具有」の物語となり、悪の問題との関連から、神的な力を持ち、強烈な創造力を兼ね備える行基を表現するものと判断できよう。


智光は易経の陰陽の関係からすると、陰の存在となっているのは明らかである。よって、天才肌である事を示すものであると思われる。


両者は共に成功者となるが、天才肌の智光と努力家の行基という対比(陰陽の関係)を作り出している事に注目されたい。


このような中での智充曼荼羅である。そしてなぜか、この頃には浄土宗に傾倒しているのがまた謎である。


総合していくと、元興寺に関わる歴史的な背景から理解できることは、当時の宗教観において、仏教と神道とは完全に分離しておらず、思想的には未分化、ないし融合していたといえる。未分化であれば未熟となるが、融合となると個性化に通じる。こちらを支持すると、仏教と神道は奈良時代において既に極まっていたとなる。


文殊菩薩が若い娘に化けるとは何かなどを含め、仏教と神道との融合などの話は、リクエストが多ければ続きを行う。現状ではこれ以上の深入りは行わない。


以上、元興寺における戦略の吟味であった。学問といっても、元興寺における学問はこれまでとは異なり、哲学的な事よりも歴史の方に重みを置く事が特徴である。よって、吟味もそのように導かれる。


もし元興寺がなければ、仏教と神道との融合というキーワードは出てこなかったはずである。


その意味で、今後も学問寺としての機能を継続していただくことを願うばかりである。


次稿では西大寺を吟味する。期待されたい。