これまでは南都七大寺を中心に事例を吟味してきた。その中間点に差し掛かっているので、息抜きに別の寺院を吟味してみる。


今回は金峯山寺(大峯山寺)である。


ここは世界文化遺産にも登録されているので、知っている人は多いかと思う。



関西において、精神修行を行う行場として有名なのが大峰山である。この大峰山の山頂にある寺院が大峯山寺であり、もとは金峯山寺であった。



明治以降に金峯山寺は二つに分かれ、大峯山寺は山上の蔵王堂、金峯山寺は山下の蔵王堂と呼ばれるようになった。


この史的展開により、本稿ではこれら二つの寺院を合わせて金峯山寺として吟味する。


この金峯山寺であるが、宗派がまた独特である。修験道という宗派を作り上げた歴史がある。よって、修験道の源流となる寺院である。


修験道の始祖であり、金峯山寺の開基を行った人物は役小角である。さて、どこかで聞いた名前であろう。


思い出せるであろうか。



陀羅尼助を作った人物である。つまり、老賢者である。


歴史もこうなってくると笑うしかない。


歴史は人間が作るものであることを思い知らされる事実関係である。


老賢者は化学の知識を応用し、薬を作る。そして、それでは飽きたらず、修験道の始祖となり、寺院を作るに至る。


よって、修験道とは日本独自の宗教と定義される。




この役小角であるが、多くの文献で名前を見るが、彼の歴史を純粋に反映するものは、『続日本紀』に一節があるのみである。


しかし、実在した人物として現在も語り継がれている。


この修験道であるが、要するによくわからない、曖昧な宗派であることが特徴である。どちらかといえば真言宗に似た思想であるが、真言宗のように即身成仏を目的とせず、厳しい修行を行うことが目的となる。よって、その苦しさから意識が遠のく様を表現するかの如く、持てる知識の全てが放出するかのような思想となる。


これは空海が金剛界曼荼羅を描いた状態と酷似している。しかし、決定的な違いがある。それは、仏教にこだわりを持っていないところである。しかし、彼の中では困った状況の中で見えたものは、釈迦如来、観音菩薩、弥勒菩薩であり、最終的に金剛蔵王大権現が現れたとなる。



これが金峯山寺が金峯山寺であることの根拠となっている。


総合すると、始祖の役小角の思想としては修行に重心を置くが、その結果として出てくるものは仏教思想であり、それが寺院として表現されたとなる。


よって、寺院の運営は興福寺の如き多岐となる。


苦しみから生まれてくる仏教となると、多くの大乗仏教の基本となろうが、くれぐれも、修験道は大乗仏教とは異なることを重ねて述べておく。


まず、役小角は老賢者なので、薬の開発を行う。



これが金峯山寺で作られていたかについての資料は現時点では存在しない。しかし、修験道の始祖が開発に成功したことは確かである。


次に芸能である。老賢者は芸能にも力を入れることは興福寺の事例においても立証済である。




ここでなぜ天河大弁財天社の公式サイトをリンクさせたかであるが、この社は役小角が開いたとされる。芸能の神が祭られていることから、当然のごとく金峯山寺でも芸能が盛んであったと思われるが、金峯山寺での芸能における記錄は室町時代からのものしかない。


まあしかし、役小角が亡くなった後とはいえ、金峯山寺において芸能は欠かせないものであることは確かな事である。


これは推測の域を出ないが、天河大弁財天社と役小角とは関わりが深いゆえ、金峯山寺が建立された当時でも芸能が盛んであったのではなかろうかとの仮説を持っている。


最後は荘園である。荘園は官寺の得意分野であるが、ここに金峯山寺も参入していた。



このように、寺院の運営として明確化していることは芸能と荘園となる。


金峯山寺で陀羅尼助が作られていたとするならば、これも含まれようが、残念ながら、現存する資料において、これは見当たらない。しかし、役小角が生み出したことは確かなことであるようなので、老賢者としての思想と行動ということで理解することにする。


これらの事例からすると、これまでに事例を吟味してきた寺院と同じ戦略となる。つまり、老賢者元型が作用した水平的多角化となる。


金峯山寺は宗派としては仏教とは異なるものの、寺院として運営する独特のスタイルである。この点に差別化戦略を見ることができる。


思想としては仏教とは異なっていても、追い詰められた時、日本人は仏の姿を見るのであろう。その不思議な現象を役小角は寺院を通じ、伝えたかったのではなかろうか。


寺院でありながら仏教思想ではない寺院という、パンクな寺院が実在する。これをも含め、日本の寺院であることを忘れてはならない。


次稿に期待されたい。