これまでは奈良時代の寺院における意思決定を経営学的に吟味してきた。


奈良時代といえば遠い昔であるが、意思決定のみを抽出すると、それは現代と遜色のない、否、その時代のほうが卓越した意思決定を行っていた事を知るに至る。朝廷における意思決定には感服させられる。


ここで念を押しておくが、私は宗教と寺院とは分離して論じている。したがって、寺院における意思決定は宗教における意思決定とは必ずしも一致しないことを述べておく。つまり、東大寺と興福寺における大乗仏教の教義と寺院の運営にかんする意思決定は必ずしも一致するものではない。


寺院の運営にかんする意思決定に影響は与えるが、仏教の教義がそのまま寺院の運営に反映されるものではないことを改めて述べておく。


例えば、東大寺における華厳宗の教義をそのまま寺院の運営に移植するとなると、大仏が営業を行う必要がある。誠に残念ながら大仏は人間が作った造形物であるので、仏教と寺院の意思決定は部分的な一致しか実現しないことが前提となる。ここに仏教の面白さがある。


この比較で神道を持ち出したいところであるが、ここでは割愛する。


これまでは難しい話ばかりを行ってきたので、ここで読み物的な事をやってみる。


法隆寺の公式サイト

https://www.horyuji.or.jp/sp/

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まずは法隆寺である。


法隆寺は聖徳太子や儒教との関連で有名な寺院である。法隆学問寺という別名があり、よって、墓を持たない。


法隆寺もまた謎多き寺院であり、その影響か、公式サイトには歴史が詳しく述べられていない。ここが残念である。よって、奈良県の薬剤師会による2次資料を添付しておく。


なぜ薬剤師会が法隆寺について述べているのか不思議であるが、これは薬師如来が本尊の一つとなっているからである。とはいえ、法隆寺が建立された頃に薬師如来は思想としても日本に入っていない事もあり、これは法隆寺の再建時に加えられたものとするのが現在での通説となっている。


ここでこの2次資料において着目するべきは、法隆寺における宗派が安定していないことである。よって、様々な宗教を取り込む真言宗や華厳宗的な色合いが強い。これ故に学問寺との別名を持つことになるが、後に建立される東大寺と同じ業態である事は特筆するべき事であろう。朝廷が関係する寺の特徴ともいえよう。


日本の初期の仏教は儒教とが融合した形であったことも法隆寺を通じ理解することができる。いいものは全て取り込もうとする、当時の思想を見るに至るが、儒教は信仰の対象が不可視であるため、思想のみを取り入れる格好となったのであろう。信仰の対象は仏像、思想は儒教との歪みは、日本における初期の仏教や儒教における混乱の状況をも知ることができる。


いろいろな出来事がある中で理解できることは、飛鳥時代や奈良時代における朝廷と寺院との関連は教育という方向で結びつく。その根拠が宗教であることは言うまでもない。


なぜ当時の天皇家は教育に力を入れる思想を持つようになり、それが意思決定に大きく影響するようになったのか。また、多数の宗派を総合することによる哲学的な教育の実践という発想の源泉はどこかについての疑問がある。これは諸子百家における稷下の学をイメージさせるが、それを単純に真似をしたとは思えない。


いずれにせよ、歴史のロマンは歴史学だけではなく、経営学の分野からも問題意識を提起することが可能であることもこの連載において証明してきた。


これが歴史学者に受け入れられるかは別として、このようなチャレンジも可能であることを理解していただければ幸いである。


次稿に期待されたい。