奈良時代における東大寺と興福寺における経営戦略を吟味してきた。


ここで理解できたことは、共に水平的多角化を展開したこと、その根底に仏教思想と老賢者元型の働きを見るに至った。総じてこれらの事により、意思決定として水平的多角化へと導かれたとなる。


この戦略が功を奏し、寺院として大きな成長と発展を遂げたといえるであろう。


ここでもう一つ重要な事がある。それは、同じ水平的多角化を展開しながらも競合しないようになっている。ここがまた面白い。なぜこのような状態になったのかについて考える時、朝廷と藤原氏の関係が出てくるものと思われる。


墨は東大寺が作っても良かったはずである。しかしながらそうではなく、興福寺が量産に取り掛かる。このように、競合しないようになったのはなぜかといえば、意思決定の問題もあろうが、最も簡単な意見として、藤原不比等による外戚関係が影響していると考えるものであろう。


もし外戚関係が本当に良好なものであれば、墨は東大寺が作ったほうが良かったと思われる。当時における墨の需要は爆発的に増えたとされており、東大寺の運営資金や学問寺としての地位を考えると、藤原氏が譲歩し、東大寺と協力体制を作るべきだと思われる。しかし、実際はそうなっていない。


また、彼らは外戚関係にありながら、運営する寺院の宗派が異なる。これがまた影響しているのではなかろうか。歴史的には興福寺の方が歴史は古い。外戚関係にあるならば、ここで東大寺も法相宗として建立しても良かったと思われるが、実際にはそうなっていない。ここもまた歴史のロマンである。


この外戚関係という事実からすると、「ねじれ」を感じざるを得ない。君臣関係がねじれているからこそ、お互いが個性化しながら進む事になったのであろう。


朝廷には朝廷の事情があり、藤原氏と外戚関係にあろうとも、朝廷としての立場を堅持しようとした事に、同じ戦略を取りつつも具体策に違いが出たといえるのではなかろうか。身内における争いごとを避けるために互いが別の具体策を取ったというより、元々の立場の違いが意思決定の差別化を生んだのではなかろうかと思われる。


ここに今西錦司博士による「棲み分け論」を見るに至る。棲み分け論はカゲロウの幼虫の形状が川の中の生息場所によって変化している事に着目した理論である。カゲロウの幼虫は川の流れに従って進化していたという、独自の進化論を発表したのが今西錦司博士である。この現象を経営学的に捉えると、それは「差別化」となる。


この差別化に戦略を取り付けると「差別化戦略」となり、ポーターの領域へ入っていくが、要するに、奈良時代における朝廷と藤原氏は棲み分けによる差別化戦略を身内の中で行っていたとなる。これほどのねじれはないであろう。


中国哲学的な視座からすると、朝廷が頭脳役、藤原氏が実行役であることが理想となるが、そもそも君臣の関係にねじれがあったゆえ、さらにねじって役割分担を逆転させることにより、本来あるべき姿の「ねじれ」に戻したと思われる。


これが功を奏し、内部分裂を防ぎ、政治としても大きく前進したのではなかろうかと思われる。


この2重のねじれの発想は誰の案であったかといえば、歴史的に後発の東大寺であることを考慮すると、時の朝廷であったのではなかろうか。その意味で、奈良時代の朝廷における知識と教養、更に経験の高さに感服するばかりである。


このように、企業における戦略は完全に合理的に進むわけではない。例えば、2重のねじれは後になって眺めてみれば簡単な話であるが、事業が進行中の状況において、「今、ねじれている!」と気づくことは非常に困難である。そこに気づき、即座に修正を行った当時の朝廷における直感的な気づきを含め、現代の私達は学ぶべきことが多いのではなかろうか。


奈良時代の話であるが、現在にも通じる企業戦略の実例である。是非とも、ここからヒントを得て欲しいものである。


次稿に期待されたい。