日本の寺院といえば何をイメージするかは大きな問題である。こういう私も子供の頃はわからなかった。寺院といえば宗教であり、寺院と宗教とは一体化した存在であった。


私の実家の近くにある有名な寺院では、結婚式をやるかと思えば、葬式もやっていた。これも子供心に不思議であった。まず、葬式は死者に対する儀式であるが、結婚式は新たな門出に対する儀式である。これが同時に行われる場所に対する疑問は小学生の頃からあった。


忘れもしない高校1年生の時、私の祖父が亡くなった。その時の通夜と葬式は先の寺で行った。かなり忙しく、死者に対するお別れの意識など認識できなかった記憶がある。その時が身内に対する初めての葬式であったので、まだ子供ながら、「これが葬式か」とつくづく思ったものである。悲しみは逆に吹き飛んだ記憶のほうが大きい。


そして翌日、その寺では大安吉日でもないにも関わらず、結婚式が行われていた。これを見た時、「現実」という言葉の意味を身を以て知ることになる。つまり、寺院は毎日稼働させないと寺の運営ができないのであろう。そこに人の生死が関わっており、経営なるものは人の生死が関わるほど壮絶なものであると、この経験を通じ、大学院生になる頃に答えを出すことになった。


これはあくまでも私の個人的な体験によるものである。十人十色とはよく言ったもので、人により寺院に対する思いは異なるはずである。しかし、寺院が作られた目的は宗教を行うためであることは確かなことである。よって、最初は寺院と宗教とは一致する思想で建立されていたはずである。


ところが、その場所に人を集合させただけでなんとかなるわけではない。東大寺の大仏を目の前に人を集合させただけで日本が良くなれば、こんなに楽なことはない。いわんや、その当時の仏教はまだ新興宗教である。その教えを伝えるためには相当なる努力が必要となる。


そこで何が行われるかといえば、「おもてなし」である。今はそのおもてなしも消滅しつつあるが、40年ほど前は、有名な寺院でも説教を受ける時、お茶やお茶請けが出てきた。子供の頃はこれが楽しみで、学校の帰りに寺へ寄り、悩み事相談と称して寺の僧侶に話しかけ、おもてなしを受けていた。日本にもそんな時代があった。


実のところ、これが大きく影響しており、仏教に対する印象は非常にいいのである。


ところで、このおもてなしを実現するには資金が必要となる。おもてなしを受ける側の気分はいいが、それを施す側には大きな負担である。しかし、私の心は大満足となる。


子供心に、こんなにもいい寺院を友達に紹介しようと思い、特に仲の良い友達を連れて寺院に入り、説教を受ける事になる。まだ子供なので説教よりもおもてなしがメインであるが、しかしここからが面白くなる。


この好循環が始まりだした時、国立大学を卒業していた住職は、寺院の敷地内で塾を始めだす。この住職が自ら演壇に立ち、もちろん有料であるが、私達に教育を施すようになる。つまり、多角化経営が始まる。この塾が評判となり、現在では塾のみがスピンオフしたほどである。


このように、寺院は布教活動に使われる事が本来の目的であるが、宗教と寺院が完全に一致していては運営資金の問題で立ち行かなくなる。そこで、その運営資金を捻出するために様々な活動をすることになる。


例え近所の子供におやつを出すにしても費用が発生する。その資金繰りを上手くカバーしていくのが宗教的な考え方となる。その考え方を活用しながら、運営資金を稼ぎ出し、地域に貢献する循環を作るのが寺院の役割となっている。


その「スマート(利口)」な経営の方法が何かといえば、宗教的には集中的多角化となる。仏教という関連を元にし、寺院では別の戦略をとる場合がある。例えば塾経営であるが、これは水平的多角化となる。


このように、宗教と経営が混じり合う場合、非常に教科書的な経営の方法となることもまた興味深い。これこそが宗教の力であろう。また、宗教と寺院とは分離されている方が、より宗教性を増すのであろうと思われる。


これらの事例を叩き台に、今後を進めていく。


次稿に期待されたい。